-歴史紀行-  ―朝鮮通信使への道を拓く− P


玄界灘の波涛を駈けた承福寺の僧

=日朝修好としての己酉条約と玄蘇の策略=



徳川家康の名を騙り日本国王の国書をしたためたのは、対馬藩主の命を請けてと言うより玄蘇自身の

これまでの外交術としての方便であった。それは日朝の和平のためであり、また朝鮮との交易こそ対馬

藩の経済基盤であり生きる道であって、そのためには手段を選ばないと言う強引さがあった。

朝鮮側も朝鮮が望んだ和平の条件を日本側が満たした親書を届けてくれば、多少の疑義、不信はあった

にしても確かめようもなく、またいたずらに拒むことは得策でないと言う判断から、徳川幕府の要請を尊重

して徳川2代将軍秀忠の関白就任を祝賀する使節団の派遣を決めた。



朝鮮船来航図
ただ、未だ正式な国交回復がなされていない時であり、誠信を

通じ合せる本来の平和外交使節でなく、朝鮮側は「回答刷還使」

と言う名目で五百余名の大使節団を日本へ派遣したのであった。

「回答」というのは家康の修好を求める親書への回答であり、

秀忠の祝賀要請に対する回答であるが。朝鮮国王の国書を

携えた正式使節である。また「刷還」とは朝鮮の役での捕虜の

返還を目的とする任務も帯びた使節でもあった。

慶長12年1月12日首都漢陽を出発、釜山から対馬経由し下関から瀬戸内海を通り、大阪へ着いたのは

4月8日であった。ここまでの道順は今までの過去の通信使が通ったコースであり、ここまでは大型の朝鮮

船である。だからその見慣れぬ唐船の船団を見ようと沿岸からは大勢の人々が見守ったという。

対馬からは藩主の宗義智と玄蘇が今まで同様に接待と案内役としてお伴をしてきた。通信使のコースは

大阪から幕府が用意する川船の御楼船に乗り換えて淀川を曳き舟に引かれて京都へのぼった。

京都での宿舎は、1530年秀吉の招聘の第一回朝鮮通信使の時の大徳寺と同じであった。

京都紫野・大徳寺は臨済宗の大本山で、秀吉が信長の葬儀を執り行い、菩提所としての総見院を建てたり

して、天下人としての地位を築く足がかりとした寺でもあった。

その総見院と、大徳寺山内の天瑞寺が

使節の高官の宿舎としてあてがわれた。

天瑞寺も秀吉の母・大政所の生前に

秀吉が建立した寺である。


            朝鮮通信使行列図

現在は天瑞寺はなく同所には大徳寺修行専門道場としての龍翔寺が建てられ、大政所の墓のみがある。

雲水として龍翔寺にいた私はよくこの墓所の掃き掃除はしていたが、当時の通信使のことなど知るよしも

なかった。ただその墓を覆っていた堂宇は現在は廃仏毀釈を免れて横浜三渓園に移築され、重要文化財

として残っている。この事を知ったのは、三渓園園長さんだかが天瑞寺殿(大政所の院号)の墓参りにこら

れた時に聞いていたからであり、その時は金さえあれば返還を求めたいものだと思ったものである。

十数日を京都にてを過ごした一行は長かった船旅の疲れも癒え、今度は陸路の東海道で江戸へ向かった。

幕府の命でもあり、各所で丁重な接遇を受けながら、4月24日江戸に到着した。徳川将軍秀忠との会見と

朝鮮国王の親書である国書の伝達式は5月6日に行われ、ここでも秀忠は使節一行を大歓迎し、帰路の

駿河では家康も歓待し、また捕虜の返還も同時におこない日朝国交修復の姿勢を表し、善隣友好への

環境は作られていった。まさに、玄蘇の方便で用いたの国書偽造の成果である。ここに秀吉の朝鮮侵略

以来冷え込んでいた日朝関係は秀吉の死から9年目にして回復への大きな1ページが記された。


禅・規伯玄方

いよいよ和平に向けての環境は整い、慶長14年5月には戦後

初めて日朝間において国交を記す己酉(きゆう)条約が締結された。

当時の対外交渉は対馬藩がすべてを負っていたことから、日本側は

外交僧の玄蘇和尚を正使として、320余名の使節団を対馬で組織

して送り込み修好条約を結んだのであった。この時も日本国王の印を

用いた徳川将軍の偽りの国書を携えていった。玄蘇が名乗った日本

国王正使の肩書きも、実は幕府には無断使用であったが、朝鮮側と

しては、これを正使として認め正式な条約として成立し、この条約が

江戸時代を通じて日朝両国の基本的約定として生きた事でもわかる

ように、この条約の重要性を物語る。

今それは、この後に国書の偽造が対馬藩の藩主と家老の柳川氏とのお家騒動による柳川の密告から、

国書偽造事件として幕府を揺るがす大問題となったことがある。しかし、幕府は朝鮮との国際問題となる

ことより、朝鮮との平和を維持する事を優先して国書偽造を犯し条約締結に至らせた藩主の責任は不問に

付して、条約そのものの有効性をお認め、密告者を逆に処罰した経緯があるほどにこの己酉条約を大事

にしたのであった。

ただ、「嘘は嘘によって固める」ごとく、この国書の偽造は両国を欺くものであるだけに、一度やったらもう

やめられないのである。両国の国王間の国書の取り交わしのたびごとにその国書の改ざんを対馬藩は

余儀なくさせられる事になっていた。その任には必ず玄蘇があたり、玄蘇没後は遺弟子の規伯玄方が

あたってきた。たとえば、最初、対馬で仕立てた朝鮮への偽りの日本から日本国王の使節であり、これを

朝鮮側は、正式の日本の使節として扱い、それに対する返書であるから朝鮮側の国書は「奉復」として

書かれるのが常である。ところが、それでは日本からの偽りの使節を出したことを知らない幕府にそれが

知られることになる。

それでは大変な事になる当事者の対馬藩としては、国書の冒頭の「奉復」を初めて差し出すときに使う

「奉書」と書き換え改ざんしたり、また朝鮮国王の国王印まで偽造して幕府に渡さなければならなかった。

さらにまた、幕府からの書簡も失礼の無いように書き改めたり、土産品の内容まで書き改めねばならな

かったし、さらに、その偽りの国書のすり替えを両国の当事者に知られずに行なうことは将に綱渡りの

策略を図らねばならなかった。

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