-歴史紀行-  ―朝鮮通信使への道を拓く− O


玄界灘の波涛を駈けた承福寺の僧

=国交回復の為の国書の偽造=



松雲大師一行の使節団は「探賊使」と言う名の通り、朝鮮・李朝が日本の国状を探るために対馬へ派遣

した偵察的な使節であって、真の親善使節ではなかった。しかし、対馬藩主宗義智の機転によって、江戸

に幕府をひらき政情安定と朝鮮との国交修復を願う徳川家康に引き合わせをはかり、慶長10年3月5日、

ここに日・朝修好へ向けての歩みだす一歩となった。


日朝修好の労に対し、徳川家康から
南禅寺住持職の公帖が贈られた。

その翌年の慶長11年、徳川幕府は早速、秀忠の2代将軍職禀と

関白職就任にあたり、慶賀の親善使節の要請を朝鮮に働きかける

よう対馬藩へ命じた。早速、藩主宗義智は家臣橘智正(井手孫六

左衛門)を朝鮮に派遣し、幕府の意向を伝えさせた。しかし、未だ

国交回復の正式な合意のない日本からの唐突な使節派遣要請に

李朝側は困惑しながらも、修好を進めるべきとの意見もあり、

協議の末日本に二つの条件を出して日本の反応を見ることにした。

その条件とは、一つは家康から朝鮮国王に対して国書を送ること。二つには朝鮮侵略の文禄・慶長の役で

日本軍が行った蛮行の一つである朝鮮国王の王墓を暴き、荒らした犯人の引渡しというものであった。

確かに、日本の幕府が親善使節の派遣を朝鮮国王に要請するわけであるから、幕府側が先ず正式文書を

以って願うのが国際ルールであろう。だが、当時の日朝の国際関係においては秀吉以来、捕虜の連行など

に見るごとくどこか朝鮮蔑視の風潮があり、またその時代の外交慣習からして、先に国書を差し出すことは、

相手に対して恭順を表したことなり、それは幕府としては到底承知するはずはないことできわめて困難な

条件であった。

二つ目の条件の王墓暴きの犯人の差し出しも困難なことで

ある。秀吉の時代の十数年前の朝鮮国での戦乱のどさくさの

中でのことであり、犯人の特定と逮捕は時間的にも不可能な

ことであった。だが、朝鮮との交易で藩の財政が成り立って

きた対馬藩にとっては、日朝国交回復による通商締結は藩の

存亡にかかわることであり、対馬藩にとっては幕府のためだけ

でなく、自藩のために是非にでもこの日朝関係の修復を果たし、

親善使節を招来させたかった。


田畑の乏しい対馬藩の経済基盤は
朝鮮との交易によらねばならなかった。

そこで幕府より朝鮮外交を一任されている立場にある対馬藩はついに偽造の国書作成と王墓暴きの偽の

犯人の差出しという暴挙によってその難局の解決を図ったのである。これが後に「国書偽造事件」として

幕府を揺るがす大問題に発展していくことになるのだが、その首謀者は藩主ということにはなるが、実は

その知恵袋として常に玄蘇和尚が控えていて、文書作成から実行まで大きな役割を果たしていた。

ともあれ、この偽造国書と偽の王墓暴きの犯人の差出しによって朝鮮は、日本の要請に対し使節の派遣

を決めたのであるから対馬藩の狙いは見事に当たり思惑通りの結果が得られたわけである。


対馬藩主:宗義智の墓

国書の偽造あるいは改ざんは、秀吉の時の慶長・文禄の乱

時の停戦、調停の働きかけにも行われている事実があり

決して初めてのことではない。偽りだますのは決していいこと

ではないが、そのことにより和平が実現し、互いの物心両面に

おいて交流を深め共に発展しあうことが出来ることにおいて、

玄蘇は偽りでなく、仏教で言うところの方便としての用いていた

のかもしれない。

今北朝鮮との拉致者の返還問題があるが、かっては逆の立場において、第二次世界大戦の折に、日本に

強制的に連行し炭鉱等の労働者として徴用してきた何万人の朝鮮の人たち、さらに遡って慶長・文禄の役

での数万人もの捕虜の連行の事実があったことの日本の責任が果たしてとられたのだろうか。

その時と比すべきではないかもしれないが、日本の要求に、偽り、偽の犯人、偽の証拠を示してくる北朝鮮

側のなりふりかまわず国交回復を求めて来ることは、かって日本が使った外交手段であるのかもしれない。

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