-歴史紀行-  ―朝鮮通信使への道を拓く− N


玄界灘の波涛を駈けた承福寺の僧

=家康、玄蘇和尚の功労に紫衣を贈る=



2002年9月17日、日本の小泉首相が北朝鮮へ渡り、金正日総書記と会談し、日朝国交回復交渉への

決断がなされたが、その焦点の一つが北朝鮮による日本人拉致問題の解決であった。

戦後57年、日朝は政治体制の違いと過去のわだかまりから国交がないまま不自然な関係の状態が続き、

この間、北朝鮮による工作船侵犯や日本人拉致が繰り返されて、国民の疑心暗鬼が増幅されていたとき

だけに、今回の小泉首相の和平へ向けての決断は歴史的快挙といえないだろうか。



朝鮮侵攻に加わらなかった
徳川家康は、終戦と共に 
国交回復への指示を出した。
それと同時に、私はこの交渉が秀吉時代に壊れた日朝関係の修復に

あたった玄蘇和尚の外交交渉にだぶって考えさせられた。

またそれは、現在の日朝とは逆の立場で考えなければならない部分も

あって、乗り越え理解し合わねばならないことも多く容易ではなかった。

当時の交渉での問題の一つには日本による何万にも及ぶ朝鮮人捕虜の

帰還交渉があった。

今回の問題の拉致者の消息とその命の重さを軽視するものではないが、

当時は加害者側の日本が与えた損害額と捕虜の人数においては今の

拉致者数に比べるならば、日本の負の大きさは、今日の拉致問題の比では

なかった。だが、朝鮮側は疲弊した国力の回復、また強固に日本との敵対

を続けることはマイナスであり得策ではないとの朝鮮国内の事情からの

判断があったことが日本側の交渉には大いに有利したことだろう。

その国益の為に、日本のこれまでの残虐な侵略行為にも目をつぶり、またそれを許し、国交回復への道を

開こうという方針に転じてくれたことは日本には幸いであった。朝鮮はその修好交渉に臨むにあたって、先ず、

日本国内の情報収集のための調査団的な使節である「探賊使」を対馬藩へ派遣してきたのであった。

どんな形であれ、国交回復が対馬藩としては藩の存亡にかかわるだけに願ってもないお客様一行であった。

対馬藩宗義智はこの機会を逃すことはしない。雲松大師(泗溟惟政)の応待や

友好交流についてはは玄蘇和尚があたった。さらに、本格的国交回復を目指す

ためには幕府の裁可がなければならない。そこで直ちに家老の柳川調信を江戸

の家康のもとに遣わして、朝鮮使節である雲松大師一行の来訪を伝え、この時を

朝鮮との国交回復への幕府の積極的姿勢を見せ、交渉への糸口とすべきことを

進言させた。もとより、家康自らが朝鮮との国交回復を命じていたのであるから、

家康は早速、宗義智に松雲大師一行の上洛を願うように伝えた。


対馬藩主・宗義智

朝鮮使節は朝鮮朝廷の命を帯びての探賊使と言う立場で、当面の目的は対馬藩において日本の情報収集

であり、直接幕府との交渉への考えも準備もなかったことである。日本国の政治を担う家康が会見を求めて

きたと言っても、直ぐに応じ上洛できるものではない。やはり本国朝鮮王に伺い指示によって動かねばなら

ないため、その調整期間に4ヶ月余を要した。その間、宗家では使節団一行を対馬に留め、講和への模索を

計り、また玄蘇和尚と雲松大師は詩文を交え友好をはかっていた。朝鮮としても捕虜の返還は火急のこと

であり、対日貿易による経済の建て直しなどあって、日本からの望みとあれば拒む理由はなかった。

慶長9年12月ようやく調整が整い、対馬藩主宗義智自ら家老の柳川調信と景轍玄蘇を伴い朝鮮使節団一行

を京都へ案内し家康との会見に臨ませることなった。然し、京都への到着のそのときは12月27日の年の

暮の事であった。


惟政大師一行の宿舎となった本法寺
連絡の行き違いなのか意図的なのか、家康は江戸在府中であり、

使節一行は家康の上洛を待たねばならなかった。秀吉の時もそうで

あったが、互いに講和を築こうという時に、相手国の国王の命を帯びて

来たる使節を長期間も待たせる無礼を平気でやることの意図は、修好

を望みながらも、家康もやはり朝鮮蔑視の姿勢が見えみえで、徳川

幕府の権勢を誇示するための策略として朝鮮通信使をむかえようとした

としか思えない。同行した玄蘇和尚は苛立つ使節をなだめ、慰めながら

家康の上洛を待つ以外になかった。

いずれにせよ一行は京都上京区の日蓮宗の本山・本法寺の宿舎に留め置かれ越年し、慶長10年3月5日、

伏見城においてようやく家康と会見することになったのである。

この時家康は本多正信、僧・西笑承悦を通じて国交回復の意向を伝え、その交渉役として対馬藩主・宗義智

と景轍玄蘇に早急に進めるように指示したのだった。家康は秀吉の朝鮮出兵に反対し、自らは出兵をさせず、

また、豊臣政権を倒し、朝鮮との修好はもとより対明国との和平を望んでいるでいる旨を伝え、修好への理解

を求めた。さらに捕虜の積極的送還を約したことにより、朝鮮使節の惟政大師らも一応の合意を得たると判断し

3月27日帰国の途についた。

玄蘇は朝鮮使節一行と共に対馬へ帰着し、朝鮮人捕虜の送還に動き、惟政大師の帰国に際して男女あわせ

3000人の刷還を実現させた。さらに5月12日には対馬藩の釜山での交易許可を謝し1390人の捕虜の

送還を果たして日朝修好への道は徐々に拓かれていくこととなった。

家康も伏見城での謁見を朝鮮外交推進のきっかけをなすものとして喜び、対馬藩には九州本土へ2800石の

加増し、随行の玄蘇和尚働きを評価し勅許の紫衣を与えた。

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