-歴史紀行-  ―朝鮮通信使への道を拓く− L


玄界灘の波涛を駈けた承福寺の僧

=夢のまた夢…秀吉死す=


加藤清正が築いた蔚山城の攻防で痛手をうけて、諸将からも朝鮮戦役の見直しの声も出始めていた。

次々の届く戦況報告が文禄の役とは違い、必ずしも日本軍有利でなく、苦戦状態にあることが伝えられる

だけに秀吉とすれば心穏やかでなかった。中国本土を含むアジア全体の支配者を夢見、その実現を手に

したかに思ったのはつかの間の幻想にすぎなかった。日の出の勢いのように出世街道をかけあがり、

天下人となった秀吉だったが、ここに至り野望はついに破るである。


朝鮮の将軍の鎧と冑
朝鮮派兵によって得たるものはあまりなく、失うことの

大きさは計り知れない。何万人もの兵士を失ったばかり

でなく、各藩は莫大な戦費、食糧の供給を強いられて、

日本国内全土において経済的疲弊は相当のものだった。

旧に復するに百年かかったとも言われているほどだ。

ましてや、侵略にあった朝鮮では壊滅的被害にあい

復興に二百年かかったといい、さらに精神的屈辱は計り

知れず、四百年経った今もなお癒されているとは言えない。

いくら奢れる秀吉でもやはり、失敗を認めざるを得ない状況であった。さらに齢も重なり、肉体的衰えの

自覚と共に自らの運気・隆盛のかげりを秀吉は感じたのかもしれない。そんな憂さを晴らすかのように

秀吉は慶長3年3月15日「醍醐の花見」なる豪華な大茶会を催したのだった。それ以来なのか、その

以前なのか、この頃より秀吉は患い、食欲もすすまなくなったという。

朝鮮の戦況報告がどれだけ正確に伝えられていたこと

だろうか。ご機嫌取りの付き人は日本軍の優勢、戦勝を

伝えていたのかもしれない。そば付きの僧、西笑承兌は

書状で秀吉は「朝鮮の処遇については、朝鮮から謝罪が

あれば許す旨、清正に伝えたという」ことを 会津中納言に

出している。このように秀吉はすでに確かな戦況の把握が

出来なくなっていたのであろう。

むしろ謝罪し、許しを願う方は秀吉自身でなければなら

ないのに、未だ野心の夢覚めぬ人であったのだ。


    日本軍の撤退を阻んだ朝鮮水軍

それでも朝鮮では苦戦を重ねながらも、日本軍は再びソウルにせまるほどに攻めあげていた。

そんな状況の中、いよいよ秀吉は死期を悟り、徳川家康をはじめとする五大老に遺言をしたため、8月16日

五大老、五奉行を枕元に呼び、秀頼をもりたててくれるようにたのみ、豊臣家の安泰を哀願して、その2日後

に息を引き取ったのである。五大老、五奉行の重役たちは早速協議し、朝鮮在陣の日本軍の撤退をきめ、

秀吉の死を公にせず、朝鮮とは和平交渉をしながら、密かに撤収を開始させた。



朝鮮名将 ”李 舜臣”を祠る忠烈廟は
今も参拝者が絶えない
文禄役の停戦和平に向けての様々な動きをしてきた玄蘇和尚だが、

その方便的和平交渉は結局は実りを得ず失敗に終わった。その後

対馬・以酊庵に帰り、禅僧本来の職務に専念、子弟の養成に励んで

いた。玄蘇和尚の卓抜なる外交僧としての活躍の風聞は玄蘇和尚の

出身地でもあり、前住地・宗像上八(こうじょう)の承福寺のにも伝わって

いた。その上八の地の出身の玄方が玄蘇の徳を慕って対馬に渡り

弟子入りしたのはこの頃である。老境に近い玄蘇であったが、聡明なる

玄方の文才を見抜き、自ら修した幻住派の法脈の継承者とすべく、

側に随わせて禅学と漢文詩偈の教育を行い、また侍者として外交

現場にまで伴った。この経験があってこそ玄蘇の後を継ぐ外交僧・規伯

玄方があるのである。

秀吉の死によって玄蘇は再び、朝鮮側との停戦、和議交渉などをしながら日本軍の撤退作戦に関わること

になり、またまた戦地に踏み入れなければならなかった。五大老の撤収命令は、王子の人質とか、とにかく

貢物をださせて日本の体面を繕ぎながら講和を結び、急ぎ帰国せよというものである。また、明・朝連合とて

戦い疲れ、あえて殺し合いを好むものではなかったので、講和交渉は比較的早くまとまり撤収は開始された。

ただ、一人李舜臣将軍は、日本軍の無傷での撤退を許すことは「悪を鼓舞して禍根を将来に残す」として

反対し日本軍の撤退の阻止をし戦闘を挑んだ。日本軍の撤退作戦は逃亡作戦の如きものとなり、日本軍は

多大の犠牲を強いられた。だがその李舜臣将軍も銃弾にあたり、命を落とすことになった。撤収の最後を

勤めた島津軍が釜山浦を離れたのは11月26日のことであった。


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