-歴史紀行- ―朝鮮通信使への道を拓く− K
玄界灘の波涛を駈けた承福寺の僧
=空しい戦いによる逃亡と反旗=
韓日共催のサッカーワールドカップは韓国の驚異的な活躍によって最高に盛り上がった。サッカー音痴の 私でも、メディアに煽られて俄かサッカーファンになったような気にさせられてテレビにかじりつくこともあった。 韓国の蔚山(ウルサン)もその試合会場で、トルコ×ブラジルやアメリカ×ドイツなどの熱戦が繰り広げられた 場所である。恥ずかしいことながら、実は私がこの「ウルサン」という地名をはっきり記憶したのは文禄・慶長の |
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ワールドカップで韓国は燃えた |
役の戦跡と倭城(日本軍が築いた城)を訪ねるツアーに参加 してのことである。 今、サッカーに沸き返る此の地がまた、かつて400年前は 秀吉の朝鮮侵略の時、加藤清正がここに陣を張り、城を築き、 戦乱の悲劇の地としたことを今からここで触れなければなら ない時と重なったことに何か特別の思いが湧く。 |
文禄の役(丁酉の乱)の一時の停戦に持ち込み、明国と日本の和平の実現に至ったかに見えた玄蘇和尚 等のが計らった明国皇帝と日本の秀吉を欺くと言う大胆な策略はやはり誤魔化しであり、いつかは綻び、 ぼろが出るのは致し方がなかったのかもしれない。この策略を知らない秀吉は、明の使節を迎えたとき、 降伏使節と思い込まされていて、朝鮮での日本の勝利を信じ、朝鮮はもとより明国の支配と言う妄想の 実現を手にしたかに思ったのだった。だが、そうではなく逆に日本を明国の属国として、秀吉を日本の 国王として認めると言う、明国の国書の内容を知り話が違うとばかりに激怒し、明の使節を追い返して しまい、朝鮮への再派兵を命じたことは先号でのべた通りである。 文禄の役という戦争が終わったわけではない。文禄という年号が慶長に改暦になった時期であった。 その時両国とも戦争疲れと、和議交渉等の成り行きの模様眺めの間の一時的停戦状態であった。 この間、日本軍は朝鮮南海岸の蔚山(ウルサン)西生浦( ソセンポ)、東莱(トンネ)、釜山(プサン)、今の 鎮海市である熊川(ウンチョン)、巨済島(コセド)などに城を築き、駐屯体制をとりながら常に臨戦態勢 をとっていた。 |
徳川家康は秀吉に再派兵を諌めたとされているが、これを聞かず 秀吉は自らの戦略を諸将に伝え、慶長2年(1597年)の正月早々に 再侵略を強行させた。 だが、命に従う武将たちの戦闘意欲は文禄の役の時とは全く違った。 戦況はすでに逆転し、交戦態勢を整えてきた朝鮮軍をはじめ、援軍の 明国軍の他に、日本に蹂躙され怨みと怒りに燃える民衆からの義勇 兵や僧兵が組織されていた。これ以上の再侵攻への危険と損失が はっきりしているだけに前線で戦う諸将の誰もが躊躇したことだろう。 各部隊とも文禄の痛手は大きく、慶長の派兵は大幅な減少が 目立った。 |
金さんの家系譜 |
命令だから出兵はしたものの、もう侵略への無意義さを身をもって感じていただけに内陸への進攻は 容易に出来ず、攻撃より築城して立てこもり、食糧補給の得やすさ、或いは守り易さ、逃げやすさに 意識が注がれていたようだ。諸将は海岸線の居城辺での小競り合い、攻防を繰り返したりで、前進は 出来ないでいた。ただ、戦果としての鼻削ぎの蛮行を続けたという記録は残る。 秀吉の指示によることであろうが、加藤清正は西生浦城を黒田長政に渡し、民衆を労役として駆り 集めて突貫工事で新たに蔚山城を築いた。だが、築城半ばに清正は朝鮮・明軍連合軍の攻撃にあい、 ろう城を余儀なくされた。幸いこれは、小早川・毛利、黒田軍が救援軍として駆けつけて明・朝連合軍の 背後をせめて助けられた。ただ、これがきっかけとなり、戦場の武将たちからも戦線の縮小の声が表立ち、 協議され内地の石田三成を通して秀吉に伝えられた。ところが、また秀吉の逆鱗にふれて、小心者扱い されなじられるありさまであった。 |
沙也可の子孫の金在徳さん |
朝鮮での窮状を知ってか知らずか、秀吉は「醍醐の花見」として知られる 大茶会を開いて享楽にひたりおぼれていた。日夜、生死の危機にさらさ れる前線の兵士は如何ばかりの思いであったろうか。日本軍の中には、 この意義なき戦いに耐えられず逃亡するもの、投降する者が相次いだ。 なぞの部分はあるが加藤清正の軍の部隊長の「沙也可」が兵卒3000人 を引きつれて朝鮮軍に寝返り、重用された言うことが朝鮮の記録に残り、 その子孫がいる。果たして史実なのか疑問もあり、「沙也可」論議が 歴史家によってさまざま考察がなされている。 |
沙也可の本当の日本名は分からない。ただ、私が訪ねた慶尚北道大邱市はずれの片田舎の友鹿洞の 地に住む、沙也可の14代の子孫と言う金在徳(きむぜとく)さんの話を聞き、家に伝わる系譜のコピーを みせてもらった。金さんの話によれば、沙也可は「儒教の文化に憧れ、その儒教文化の行き届く国を兵を 向けて侵す義は何もない」として反旗を翻して朝鮮へ投降し、逆に日本軍と戦ったり、鉄砲や火薬の製造法 を伝授したなどの功によって、朝鮮国王「宣祖」より朝鮮では名門の金海の金氏の姓を賜り、忠善と賜名 された。その後も朝鮮国内の乱と北方民族の乱に自ら志願して参戦し、忠烈を尽くしたので三乱の功臣と 称敬されたという。在徳さんは沙也可の子孫である事を誇りに思い、沙也可認知に一生懸命であった。 |