-歴史紀行-  ―朝鮮通信使への道を拓くー D


玄界灘の波涛を駈けた承福寺の僧

=城址を踏みながら往時偲ぶ=


私が名護屋城天守閣跡の高台に立ったのは平成11年8月25日であった。それは私の朝鮮通信使の

歴史探訪の出発点であり、これから韓国へ渡るにあたって、この海のはるか先を往還した通信使たちの

軌跡を思い描くひとときであった。この城が果たした文禄.慶長の役のその意味合いを苔むして壊れかけた

城跡の石垣に問いながら、幾十万の人々の悲しみ生んだ歴史の舞台をゆっくりと歩いた。天守台跡に佇み

てしばし、玄界灘に向かい沖合いを眺めていると、朝の間の雲は晴れて、朝鮮外交の窓口であった対馬の

島がぼんやりと浮かんで見えてきた。あの島を舞台にして幾度となく朝鮮へわたり、命がけの外交努力続け、

その評価受けないままに、彼の地に果てた玄蘇和尚の生涯を偲び、多少の所縁ある寺の住職として、また

郷土、宗像の先人として私なりに彼を称え、歴史の表舞台に光を当てて見たいと思った。


名護屋城跡への登り口

名護屋城跡の一角には佐賀県立「名護屋城博物館」がある。

日韓両国の立場から文禄.慶長の役(朝鮮側では壬辰.

丁酉の乱という)の実態を語る資料が展示されている。

この戦乱の歴史的位置付けを明らかにすることを目的に

建てられたらしい。「この城を巡る周辺一円には、諸大名の

陣屋敷が建ちならび、朝鮮へ向かう兵士がひしめきあった。

商人たちはは町屋を構えて、人々は仕事を求め、利を求めて

雪崩れ込み、遷都の如き活況を呈して、軍事産業景気に湧きたつ一大軍事都市が出来上がった。

城の規模は大阪城に次ぐものであった」との博物館の学芸員の説明を聞きながら、あらためて太閤

秀吉と言う人物の秘めた恐ろしいまでの狂気と権威掌握の確かさに感心もさせられた。

戦国の諸大名の誰もが、抗しきれずこれに伏した。徳川家康のような面従腹背の武将もいたであろうが、

異を唱えることはなく名護屋城下に陣屋を構えるジェスチャーをみせれば、他の諸大名も朝鮮への派兵

意欲を見せ、俄然、臨戦ムードは高まっていった。

武将は、すすんで服命を喜び、武威を競い合って侵略へ

進んでいった当時の状況を思い描いた。展示物を見ながら、

その歴史の裏面が見えてくるような気がし、また、その中で

躍動した僧、景轍玄蘇の木像(対馬.西山寺に祀り安置)の

写真にもま見えることができた。

先師湖心和尚の居住の宗像.隆尚庵から承福寺、博多

聖福寺へと出世住持した玄蘇和尚は、当時の禅風の一翼

にあった幻住派の重鎮でもあった。


  天守閣跡につくられた陶板の諸大名陣屋分布図

湖心和尚は西国の雄.大内義隆が仕立てる遣明正使として、足利将軍義晴の国書を携えて明国へ渡り、

明の皇帝ともま見えた外交僧でもあった。当時室町時代の足利幕府から頻繁に日本国王使として、朝鮮

王朝の首都である漢陽(ソウル)へ国使が派遣されていた。その正使、副使の役は京都五山の僧が選ば

れていた。漢文に通じ詩文にも通じなければ外交役は果たせなかったのである。



大阪城に次ぐ壮大な名古屋城の図
湖心和尚も京都.南禅寺において視篆開堂した地位ある僧であった。

その弟子、玄蘇も漢詩、語学に秀で、また湖心和尚ゆずりの外交術を

自ずと身に付けていたはずである。その点がかわれてであろうか、玄蘇

和尚は対馬藩主のたっての乞いに応じて対馬に渡り、以酊庵を開いた。

栄西禅師が開く名刹.聖福寺という大寺院の住職の立場を投げ打って、

小藩の対馬に渡ったのは日本の平和にとり朝鮮外交の重要性と難しさ

が分るが故に、平和を願う宗教者としての使命感あってのことであろう。

以来、朝鮮との外交交渉に当たる役所としての以酊庵は江戸時代を

通して幕府直轄の外交拠点として重要な任務を果たした。

文禄元年4月、秀吉は先ず九州の諸大名に対して渡海命令を下し、その月の末には自ら名護屋城に入り、

戦況の報告を受けながら、桃山文化に彩られた城内にて茶会を開くなどを行った。その時、玄蘇は朝鮮

侵攻の第一陣として、小西行長、宗義智の陣に従い、戦渦の中にありながら、朝鮮軍との停戦交渉の

努力を続けていた。                                      (つづく)

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