-歴史紀行-  ―朝鮮通信使への道を拓くー C


玄界灘の波涛を駈けた承福寺の僧


=大義なき日本の要求=


玄蘇和尚の外交努力によって果たした第一回目の朝鮮通信使の来訪ではあったが、やはり秀吉の朝鮮を

日本の属国の如き対応と、さらに秀吉の野望である明国征服の手先となり征明への加担せよとの要求に、

朝鮮国が承知するはずはなく、日朝友好の通信使の目的は不調に終わった。ただこの時は、外交文書の

やり取りの仲介に当たった玄蘇の巧みな言い訳、答弁により、断絶には至らず、一通りの外交儀礼としては

収められたといえよう。

朝鮮通信使の足跡を訪ねる旅において
韓国釜山大学史学科教授 金東哲先生
より朝鮮側から見た朝鮮通信使の話を伺う

折衝に当たった対馬藩宗家としては、朝鮮との交易で成り立ち、

自らの藩自身の生き残りを図るためには、朝鮮との友好関係の

維持は不可欠であった。だから、「朝鮮を従属とし明国征服の

先導を朝鮮に求め、拒否されれば朝鮮への派兵という」秀吉の

意図を伝えることは出来なかった。その狭間に立って、とりあえず

でも日本統一を祝賀するための通信使の派遣をさせて友好関係を

維持していこうと言う、宗家の思惑を含んだ、もとよりのまやかしの

外交でもあったのだ。宗家は玄蘇和尚にその難しい交渉を委ねた

のであった。

そのような複雑な立場の対馬藩宗氏の意図を受けての玄蘇和尚は、失念した通信使一行の朝鮮帰還に

同行し、再び朝鮮に渡り漢城(ソウル)に入ったのは天正19年(1591)1月のことであった。それからまた、

苦渋の政治折衝に臨んだのだった。玄蘇は秀吉の明国の派兵を最早とどめ得ない現実にあたって、

いかに朝鮮との戦禍は避けるかを模索し続けたことであろうか。秀吉は朝鮮を既に属国の如くとみなし、

明国征服の先導を要求していたが、玄蘇はそのような無謀な要求を、そのまま伝えることは出来るはずは

なかったからである。

そこでもなお無理を承知で玄蘇は、朝鮮国王をはじめ、重臣たちへ秀吉の

明国への派兵の意思を伝え、「仮途入明」という詭弁を弄して、「明国は

久しく日本との国交を断ち、貢物もなく、挨拶もない。これを秀吉は憤慨して

兵を起こそうとしている。だから、朝鮮国の方から、先ず明国に対して日本へ

友好の通ずる斡旋をするか、さもなくば、日本軍の明国征服の為に朝鮮国の

道を借りたい。是を受け入れてもらえば、戦禍無く無事である」ということを

伝え、「仮途入明」を要求したのであった。

承福寺九世 景轍玄蘇和尚の位牌

(現代的に例えれば、アメリカがアフガンへの攻撃のために、経済援助をちらつかせてパキスタンの空港を

使用し、実質的支配することに似ている)いずれにしても、強圧的であり、何の義もない要求にしか思えないが、

そのとき出来る玄蘇の苦肉の策であったことだろう。

だが、当然のことであろうが、朝鮮側はこれを拒否した。玄蘇の「仮途入明」の要求に対し「貴国ハ朋友ノ国

ナリ、大明ハ君父ナリ、若シ貴国ニ便路ヲ許サバ、是レ朋友有ル事ヲ知リテ、君父有ルヲ知ラザル也。

匹夫スラ是ヲ恥ズ、況ヤ礼儀ノ邦ニ於イテヤ」と言って退けた。

名護屋城天守閣跡より対馬を望む。
秀吉は朝鮮出兵の前線基地として
肥前(佐賀県)に名護屋城を築いた。

朝鮮国側は通信使の帰国に同行して来た玄蘇和尚の

接待の場で「日本が朝鮮の道を借りて、宗主国たる明国へ

攻め入ると言うことを聞かされてびっくりしたのは言うまで

もない。早速、重臣会議を開き、通信使の正使の黄允吉と

副使の金誠一報告を聞く。ところが日本の朝鮮派兵計画が

本当にあるのかどうかについては二人の意見が全く違った。

正使の黄允吉は「秀吉目は鋭く、恐るべき人物で必ず朝鮮

への出兵はある」と言い、副使の金誠一は「秀吉の目は

ネズミのようで恐るるに足りない人物で出兵など出来る

わけはない」という報告であった。


このように全く正反対の報告の背景には、朝鮮国内には政権をめぐる二つの勢力の政争があって対立しあう

正使と、副使であったという不幸が、朝鮮の国防の判断を誤らせたともいえる。結局、実権を握る側にあった

副使の金誠一の報告が採用され、朝鮮は国際情勢が把握出来ず、防衛手段が全くされないまま日本軍の

侵略にあってしまったと言える。

玄蘇は朝鮮の征明に加担しないという拒否の「答書」を持って帰国したのは天正19年5月であるが、秀吉は

その年の8月に諸大名に来年の3月に朝鮮出兵への動員令を発令し、同年10月には、大陸侵略の前線

本部とするために、肥前佐賀に名護屋城の築城にかからせ、諸大名の陣屋敷を割り当て一大城下町を

築いたのであった。かくて、文禄の役に突入することになる。               (つづく)

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