-歴史紀行-  ―朝鮮通信使への道を拓く− R −最終回−


玄界灘の波涛を駈けた承福寺の僧

=対馬藩のお家騒動は国際問題だった=



対馬藩が行う朝鮮との外交はそのまま日本政府との外交を意味した。その任の中心として常に陰になり

日向となって生涯をささげた玄蘇和尚は国交回復の大任を果たし、以後二百余年にわたる日朝友好の証

としての朝鮮通信使の道を拓き、世寿75歳で遷化した。玄蘇亡き後は、愛弟子の規伯玄方が以酊庵2世

として朝鮮外交を引き継ぐことになった。玄方は玄蘇の出身地、筑前宗像の同郷であり、玄蘇が一時住

した承福寺の直ぐ近く桑野家の出で玄蘇の出世を慕い対馬へ渡って弟子入りしたのだった。

玄蘇は同郷弟子と言うことだけではなくその聡明さをみて、漢文語録や詩文など禅僧としての教育の他に

外交にも随伴させて自らの後継者として期待したものである。 だが、玄方はまだ24歳。僧としての修行も

僧階も不十分の状態の時であった。その状況のなかでの玄蘇の死は、否応なく玄方は以酊庵を引き継ぎ

外交僧としの歩みださねばならなくなって行った。 しかし外交は待ったなしである。



朝鮮通信使
次々に起こる問題の文書は漢文でのやり取りだ。

その面の処理は玄方は出来ても、難交渉や使節

の対応は重責で、駆け引きにおいては老練さや

政治力や経験がものを云う。

玄蘇の遺徳で務めてはいても若い玄方にはまだ才能だけで僧としての立場も、経験もなかった。

玄方はあらかたの事務の整理をして、藩主宗義智に願い自ら僧としての資格と修行の実績と内実を得る

ために京都南禅寺に修行出向き対馬を離れた。

この間の7年の間に対馬では玄蘇と共に日朝の外交に携わった家老の柳川智永や藩主の義智やが

相次いで亡くなり世代交代が行われていて、お家事情もかわっていった。義智の後を継いだ義成は

12歳、先に柳川の家督を継いだ調興は13歳と若く二人の関係はうまくいっていなかった。調興は祖父

調信以来、徳川家より肥前田代の地を受けるなどして、信任が厚く徳川直参であるとの思いが強くあった。

調興は事毎に藩主義成と対立し、臣下としての所領の返却や君臣の関係さえ解消を求めて争うことが

続いていた。柳川調興は朝鮮外交においても支配を強め、朝鮮側にも取り入り独自の外交を行うなどの

勝手な行動さえ始めていた。

対馬でのお家争いは玄方のもとへ届かぬはずはなく、元和5年

(1619)12月玄方は修行を打ちきり対馬・以酊庵へ戻った。

そのことは直ぐに宗家より幕府に報告され翌年には徳川秀忠より、

僧位を贈る公帖が順次届けられ、最終的には五山建長寺の

住持職が贈られて、名実共に再び外交僧としての道を歩み

始めることになった。 だが、玄方のいない間に対馬藩内での勢力

を強めた柳川調興の障害があり、玄方は藩主と柳川のはざ間に

あって、まともな外交は出来ないままに時を過ごさねばならなかった。


     盛岡藩の御預人帖

この間、調興の主導のもとに朝鮮へ偽りの日本からの使節団を派遣しその国王正使として玄方があたり、

寛永元年には朝鮮の使節招来を成功させている。しかし、まだ真の通信使ではなく回答使であり、捕虜の

帰国を意味する刷還使であった。

玄方が外交僧としての力領を表わせたのは朝鮮の宗主国である明の政変で新しく後金国(後の清国)が

建国され後金軍が満州より朝鮮へ侵入し後金への従属を迫って漢城へ占拠したことでの状況探査の朝鮮

渡海の時である。明の崩壊と後金国建国のその情報は直ちに対馬はもちろん幕府にも伝わり、友好国

としての日本も無関心では居れなかった。その状況掌握の調査として、玄方は自らが赴く旨を幕府へ報告し、

老中の了解を得、その命令書を携えて、朝鮮との交渉にあたることとなった。この時初めて国書偽造でなく、

正式の幕府の奉書を持っての渡海であった。今まで朝鮮は日本の使節はすべて釜山で応対し、決して上京

を許さなかった。しかし、玄方は一層の日朝友好の為に後金国と朝鮮との関係をはっきり掌握しなければなら

ないことを朝鮮側外交官に伝え、説得し遂に漢城への上京の許しを取り付けたのである。寛永6年規伯玄方

は朝鮮戦争後、日本人としてはじめて漢城へ入ったのだった。この探査報告で玄方は幕府の信任と宗家の

立場を有利にさせたことと、玄蘇亡き後の朝鮮側でも外交僧としての玄方の評価も勝ち得ることとなった。



京都より方長老を慕った商人は盛岡で木津庵を開く

(現在は文具、紙の商社)
しかし藩主と家臣の対立はいよいよ深刻になり藩主

宗義成は藩主をないがしろにする柳川氏の態度を

幕府へ訴え出た。ところが、逆に柳川氏も、積年の

国書改ざんと国王印の偽造を告発し対馬藩の内紛は、

幕閣を揺るがせる一大事件へとエスカレートして

いったのである。 一小藩のお家騒動なら簡単に処断

も出来ようが、ことが国書改ざんという国際問題をはら

む事柄だけに幕府としては苦慮せざるをえず、あくまでも

慎重に事を運び、およそ2年間に及ぶ隠密裏の調査を

しての判決を下す異例の事件であった。

判決は朝鮮との平和関係を重視する事を第一として考え、穏便な対処でことを済ませる形がとられた。

それはせっかく築いた平和外交がここで壊れることの損失は避けねばならなかった。

国書偽造改ざんや国王印の偽造は、玄蘇をはじめ前藩主と柳川家の共謀によって始まり、恒常化して来た

ものであった。お家騒動はその利権争いでもあったが、幕府は喧嘩両成敗の形をとり、柳川調興は津軽藩

へ流罪となるが、これからも外交を重視したい幕府は宗義成は年少という特別処置により処刑からはずし、

代わりに規伯玄方が南部藩(岩手・盛岡)へ流罪が申し付けられた。玄方は義成の教育の師であり、後見人

的立場もあって宗家の罪を一身に負う形での流罪であった。48歳の時である。


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