-歴史紀行-  ―朝鮮通信使への道を拓く− Q


玄界灘の波涛を駈けた承福寺の僧

=玄蘇の死と果たした役割=



国書は国家間の最も重要な外交文書である。幕府より朝鮮との国交回復と外交の一切を任された対馬藩主

宗義智は双方の立場の相違を埋めなければその糸口さえ開けないことから、やむなくその関係回復を早める

ために、外交顧問の玄蘇和尚、家老の柳川調信らと計画を練り上げ、まず徳川家康の国書を偽造して朝鮮へ

送った。その結果翌年、回答使として来日した朝鮮使節の持ち来たった朝鮮国王の返書を、返書ではなく

親書として改ざんし、つじつまを合わせざるを得なくなり、それより以後の日朝双方に往復するの国書はひそか

に対馬藩の手によって次々に改ざんされていった。



朝鮮通信使来朝図
重要な外交文書の改作の是非はともかく、その結果のもたらした

日朝和平が、以後200年にわたる間、十数回の朝鮮通信使の

派遣がなされ、徳川幕府の鎖国政策の間にも唯一、朝鮮には

倭館(日本人館街)が再館され対馬藩を通じて活発な貿易がなされ

ていったのである。玄蘇は慶長14年その最初の平和通商条約

といえる己酉(きゆう)条約を締結し、通信使の道を拓くにあたっての

重要な役割をはたした2年後の慶長16年(1611)10月22日

対馬以酊庵において入寂した。

世寿75歳。その以酊庵は彼が朝鮮外交の拠点として開山した寺で、玄蘇亡き後も以酊庵には幕府の委嘱を

受けた京五山の僧が派遣され朝鮮外交の窓口として重要な役割を果たした。

玄蘇和尚の経歴については折々に紹介してきたが、改めて概略歴を記しておきたい。玄蘇は天文6年(1537)

筑前宗像郡福間・飯盛山城主、河津隆業の二男として生まれる。当時宗像は戦乱の地にあり南からの攻める

大友宗麟、東からの大内氏のあいだにあった。河津家は宗像氏と共に、大内氏側につき関係を深くした。80代

宗像氏貞の父である、宗像78代宗像正氏は家督を譲り大内義隆の家臣となり山口の黒川郷を拠点とし義隆の

隆の字をもらい黒川隆尚と名乗った。その隆尚が帰依したのが、大内義隆の政治顧問的役割の禅僧、湖心

碩鼎和尚である。隆尚は晩年宗像領に帰り上八(こうじょう)村、承福寺の直ぐ近くに隆尚庵を建立し開山として

湖心和尚を拝請した。

湖心和尚は京都南禅寺で視篆回堂(最高位の就任の儀式)を行ったほどの

名僧であり、宗像、大内と同盟にある河津家としても落慶法要など湖心和尚

との交わりはあったことから、その縁はあり、玄蘇は湖心の弟子として出家した

のである。湖心は大内義隆の仕立てた遣明使の正使として足利将軍義晴の

国書を携えて明国に渡った外交僧である。


飯盛山

玄蘇は湖心に師事した他京都建仁寺・春沢清正禅師、霊源寺の一絲文守禅師に師事したという。

後に隆尚庵に帰り、永禄7年(1564)湖心の後を継ぎ隆尚庵2世となる。後、宗像80代氏貞に招かれて

承福寺にはいり、氏貞の父隆尚の25回忌予修法要をおこなっている。天正5年(1577)博多・聖福寺百九世

として出世。詩文に秀で、漢文に堪能であることから、天正8年(1580)対馬藩宗義調の要請を受けて対馬へ

渡り、朝鮮外交の任を負う外交僧としての活躍が始まる。この時、対馬に対して豊臣秀吉より朝鮮使節の招来

の命があっていた。その招来の要請の使節団の正使として玄蘇があたり、副使には対馬藩主、家老がなり、

一行の中にはの朝鮮貿易でも活躍し対馬藩とも親密な博多の豪商・島井宗室等博多商人が加わったのである。

以来玄蘇は禅僧としての本来を離れて生涯を朝鮮外交実務のほとんどを担当し、平時の時も、戦乱の時も

第一線で活躍し、何度も何度も朝鮮へ渡海して外交活動に生涯を捧げた。


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