<今月の禅語>     ~朝日カルチャー「禅語教室」より~


   樹下石上 (じゅげせきじょう) <不詳>




 昔、私が大徳寺修行専門道場に入門したときの師は晩年に近い頃の蔵暉室小田

雪窓老師である。その雪窓老師からよく「己を虚しくせよ」「虚しくあれ」と

諭された。修行道場である僧堂では、一歩でも先に玄関に入ったほうが上席と

して遇され、先輩、後輩のけじめは世間以上にはっきりしていた。自我心強く、

わがままだった私は、入門当初よりその先輩の雲水たちより親切心からでは

あるが、四六時中怒鳴られ、どやされ、しごかれて、情けないやら悔しい

やらで、いつも心は苛立ち、感情を抑えるのに苦労していた。


 そんな私にとっては老師より下された「己を虚しく」と

言う言葉は大変思い言葉として受け取れたものである。

 しかし、道場の厳しい規則での生活やしごきに耐え切れず、

とうとう胃潰瘍になり、我慢の限界を過ぎて吐血し、路上で

倒れて救急車で病院へ運ばれて、そのままベツト生活をする

ことになった。後日、老師は侍僧を見舞いに遣わせて

「樹下石上」と書かれた一枚の短冊を下られた。

 昔、修行者は樹の下、石の上を好んで座禅の場とした

ところからきた禅語である。しかしこの「樹下石上」の語は
 

ただ単に樹の下、石の上のみが修行の場と言うのではなく、樹の下であろうが、

石の上であろうが、今いるところ、即ち何処にいても、そこがお前の座禅道場

なのだという意味でもある。つまり雪窓老師は私に「お前の今の修行道場は

その入院しているベツトの上なんだよ」という教えとして「樹下石上」の短冊を

下されたのである。何と情け深いお見舞いを頂いたことだろう。胃潰瘍で倒れ

修行者としてまさに挫折感に沈む私にとっては何よりの励ましであった。

 さらに老師は僧堂での決まった剃髪日の

四と九の付く日の5日毎には頭髪を剃りに

侍僧を遣わせて下さった。病院暮らしの中

での私の俗情の芽を摘むためである。

 この親切は誠にありがたいとは思いながら、

いささか恥ずかしく閉口したものである。

 仏法は「行住坐臥、著衣喫飯」というように日常生活そのままの生活の中に

あるとの教えはあっても、そんなにたやすく己を虚しく出来るものではない。

 しかしそんな病院暮らしの中で、常に雪窓老師の心遣いの一枚の「樹下石上」

の短冊の教えは怠け癖のある私を励ましてくれた。




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