<今月の禅語>


   大道無門 (だいどうむもん) <無門関> 大道に門無し





 大道は四方八方開けっ放しであり、どこからでも出入り自由である。

何ものにもしばられず制約も受けない絶対自由の境地。



  大道無門

  千差路
(みち)有り

  此の関を透得
(とうとく)せば

  乾坤
(けんこん)に独歩せん



真理の世界、悟りの世界に到るには、どの道を択び、どこから

入ればよいかなどと云うこだわりは不要である。

禅の悟りには直指人心、見性成仏といい文字や言葉によらずに、

その本質である仏性を直視してつかむことだと教える。

経典には八万四千といい千言万言を費やしてお釈迦さまの言葉が記されている。

しかしそれらが果たしてお釈迦さまの心そのものを伝えているものだろうか。

本当の仏の心は経典ではなく、経典は人々を教化する方便であるとするのが

禅宗の立場である。したがって、仏の説かれた経典、経文にとらわれず、それらの

言葉を説かれた仏の心、その肚
(はら)をずばりとつかむことが何より大切だと

している。月はあそこだと指す指ばかりを見ていたら月は見ることはできない。

薬の効能書きだけでは効き目はない。修行の実践弁道による悟りの境地を得る

ことこそ大事なのである


 真理(さとり)に到る大道とは仏道の道に即して

生きることであり、行住坐臥の日常の生活の中に

大道はあるのだ。そこには特定の道があるわけ

ではなし、決まった入り口あるわけではない。

あるとせば、めざす無門の法門であり、千差万別

それぞれの仏道があるのだ。まさに大道は長安に

透るという如く、しっかりと目標を定めて足元の

修行が肝心であることは言うまでもない。

 ところが、また千差路有りと云い無門と云いながら安易に無門を透過できる

ものではないと無門和尚はここで関所を構えたのだ。大道無門と云うことは、

入るべき入り口がないということでもある。無門はそのまま堅牢難関の関所で

あり、ただでは透さない無門関だったのだ。にわか作りの関所手形、偽物手形

ではどっこい通さぬぞと再修行をせまる。不惜身命修行して仏意にかなう手形を

得てはじめて透過できる門である。この無門の関さえ透過すれば、縛られる何も

なく天地にあって自由自在な境涯の働きが出来るというものである。

 これは修行者に示した言葉であるが、誰でも人生の道はひとつではなく千差路

有りで、どの路を行くもしっかりと目標を定め、足元の実践を確かなものにして

いきたいものである。この大道無門は真実の自己、本当の自分に目覚めて言える

言葉であるが、その無門の絶対自由の世界を目指す努力精進こそ尊いのである。




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