<今月の禅語>


   本来無一物(ほんらいむいちもつ) <六祖壇経>





 禅宗の初祖達磨禅師から法灯を守る五祖の弘忍大満禅師のもとには七百人もの

修行僧が集まっていた。ある日、弘忍禅師は次の継承者を決めるに当たって、

門下の一同に、「自ら会得した境地を偈にして示せ」と告げられた。

神秀上座はこれに答えて示したのが次の偈である。

 身は是れ菩提樹
  
(この身は菩提(悟り)を宿す樹である)

 心は明鏡台の如し
  
(心は曇りのない明鏡のようにすっきりしている)

 時時に勤めて払拭せよ
  
(だからいつも精進して心を払い浄めなければならない)

 塵埃を惹かしむること莫れ
  
(そのために煩悩妄想の塵や埃で汚さないことである)

 神秀上座は五祖門下のナンバーワンであり、広く学問に通じ

大衆の信望も厚く、彼に及ぶ者がいなかった。この偈により皆は

六祖になるのは神秀に違いないと思った。ところが未だ一人前の

修行者として認められていなかった、米搗きとして働く新参の

慧能行者
(あんじゃ)がこの偈を見て、その傍に

   菩提本(もと)樹無く

   明鏡も亦
(また)台に非ず

   本来無一物

   何れの処にか塵埃を惹かん


神秀上座は身は菩提樹と云われ、心は明鏡台と云われたが禅で言う空の世界・無の

世界にはもともと菩提も無く煩悩も無く身もなく心も無く、本来無一物である。

なんで塵や埃がつくことがあろうか、ましてや払ったり拭ったりすることもない。


と云う偈を示したのである。この「本来無一物」はまさに最上座の神秀の偈を

身分も最下位で、新参者の慧能が否定した内容の語を掲げたものだから、僧堂内は

大混乱となった。しばし寺内は身分も弁えぬ慧能への批判と、真実の境地は慧能が

優るという意見もあって侃侃諤諤の騒乱となったが、結局、

五祖弘忍は慧能を六祖としの伝法衣を授けた。結局、慧能が

禅宗六祖の地位を得ることとなった。だが、また神秀上座も

後に北宗禅開き、禅の法脈が北宗禅と南宗禅の分岐きっかけ

となったいわく因縁の語がこの「本来無一物」である。

 本来無一物とは読んで字のごとく、本来執すべき一物も無い、何も無い、一切

空であり、絶対無であることを意味する。分別相対的な観念を全くはさまない

世界なのである。本来の心、仏性にはもとより塵や埃はないではないか。

何事にもとらわれない、「空」や「無」と云う悟りさえとらわれないところで

あるから、煩悩妄想の起きようもないというところの心境をいう。

さらに無一物の境地は、万法に広がる世界であり、限りないものがあり、

そのままが「無一物中、無尽蔵」の世界なのである。



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