<今月の禅語>


   寒時寒殺闍黎 熱時熱殺闍黎 〈碧巌録〉

       寒時(かんじ)は闍黎(しゃり)を寒殺(かんさつ)し、
       熱時
(ねつじ)は闍黎を熱殺(ねっさつ)




 「言うまいと思えど今日の暑さかな」とは誰の句か知らないが、ついつい今日も

暑いですねぇと言葉を交わす。“暑い、暑い”と言ってもも涼しくはならないどこ

ろか、却って暑さが気になってしまうのに、つい他愛なく出てしまうこの季節の

「愚痴」言葉である。昔、中国に洞山良价
(どうざんりょうかい)禅師と云う有名な和尚の

もとにひとりの修行僧が問答を仕掛けた。


「寒暑到来如何が回避せん」(季節季節ごとに厳しい寒さや

  暑さがやってきますが、どうしたらそれを避けることが出来

  ましょうか?)

洞山『何ぞ無寒暑の処に向かって去らざらんや』〈暑さ寒さの

  無いところへ行けばよいではないか〉

「如何なるかこれ無寒暑の処」〈その暑さ寒さの無いところは

  どこにありますか?〉

洞山「寒時(かんじ)は闍黎(しゃり)を寒殺(かんさつ)し熱時(ねつじ)

  
は闍黎を熱殺(ねっさつ)

 (寒いときはそのまま寒さになりきり、熱いときはそのまま

  暑さになりきりることだ)

「なりきる」とは禅宗での常用語で、「そのことに徹して迷いが無い」と云う意味

である。闍黎とは阿闍黎のことで僧位を表す言葉で、僧の尊称として用いられて

いる。寒殺・熱殺の殺は語意の強調語で殺すと云う意味ではない。

 『寒いとか暑いとか言うのは暑さ寒さを分別比較して、寒いといい、暑いと

いって嫌い避けようとして、結局、寒暑に振り回されてしまうから愚痴になって

しまうのだ。寒いときは寒さになりきり、暑いときは暑さに徹して逃げようとか

避けようとするのでなく、暑さに任せておけばいいじゃないか、何で迷うことが

あろうか』と洞山禅師が示された言葉である。


 ただし、これは僧が問うた寒暑とは単なる暑さ

寒さのことでなく、心のうちの苦悩煩悩のことで

あり、苦しいとき辛いとき悲しい時の悩みをただ

避けたり、一時逃れるするのでなくありのままに

受け止め、そのこと、その事柄に徹しなりきる

ことによって煩悩苦悩から解放されることなのだ

という教えである。


-恵林寺の山門-

 甲州、武田家の菩提寺の恵林寺の快川和尚が戦乱に巻き込まれ、織田信長の軍に

よって火をかけられて山門楼上で死の間際に用いた言葉に『安禅必ずしも山水を

用いず、心頭滅却すれば火も自ずから涼し』と云うのがある。

火そのものが本当に涼しいはずはない。ただ、煩悩、苦悩の業火から逃げ惑い回避

しようとすることなく、ありのままに受け止めそのことに徹していけば苦しみの

苦しみとすることがなくなることの心境を表わすことばだ。

 真夏の甲子園球場の高校野球の熱戦はまさに

夏の風物詩である。クーラーの効く部屋でのTV

観戦も楽しいが、うだるような暑さの球場スタ

ンドの応援は汗だくながらも暑さを忘れての

楽しさがある。

 だが、さらにグランド内で試合に没頭し、一球一球に全神経を集中している

選手たちにはもう、暑さ寒さなんていうことはなくゲームそのものに徹している

ことにおいては洞山の言う『寒殺し、熱殺し』きった状態であろうか。



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