<今月の禅語>


  主人公〈しゅじんこう〉   (無門関)




 この語は以前このコーナーで取り上げた「惺々著」の語と重複する説明になって

しまうが、無門関十二則に出てくる「瑞巌主人公」という公案の中の言葉である。

「瑞巌の彦和尚、毎日自ら主人公と喚(よ) び、復た自ら応諾す。

乃ち
(すなわち)云く、惺々著(せいせいじゃく)(だく)

他時異日
(たじいじつ)、人の瞞を受くること莫れ、(だくだく)

主人公とは本心本性の自己、真実の自己、惺とは惺悟の語がある

ように悟るとか心が静かなさまを言う。著は語意の強調する助辞。

は「ハイ」の返事。瑞巌師彦禅師は毎日自分で自分に「主人公、

即ち師彦和尚よ、と自らに呼びかけ、自分で―ハイと返事をして

惺々著(しっかりと目覚め、本来の面目を保っているか。)人をあざむくことも、

あざむかれることのないよう、真実の自己の状態でいるか。 ―ハイハイ」と

自問したと言う。

瑞巌和尚とは中国浙江省・丹丘の瑞巌寺に住していた師彦
(しげん)禅師のことである。

この人物伝記の詳細は不詳であるが、禅門ではこの逸話は有名でよく例話として紹介

されて瑞巌和尚の名を知らない者はいないくらいである。

  座禅とは己れのこころを見つめて静かに座るのが一般的常識

であるが、瑞巌禅師は毎日座禅しながら大きな声で「主人公ぉー」

と叫び、「ハーイ」と自ら答えたといい、また「目を覚まして

いるか、ぼんやりして人に騙されるでないぞ」そして「ハイ、

ハイ」と返事を繰り返したという風変わりな和尚であった。

この主人公とは、禅で言うところの「本来の面目」ということで

ある。すなわち、本来の自己、真実の自己ということであり、

 本来備わる「仏性 (ぶっしょう)」のことである。禅の目指すところは「己事究明」に

よる「見性成仏」である。己の内心を究明し究明して、生まれながらに頂いている

仏性への目覚めに修行の眼目があるのだ。

 坐禅の「坐」の字は土の上に人が向き合って対話する形から成り立っているが、

その人とは己れ自身ともう一人は別なる自分、すなわち内心の自分、魂の自分の

ことである。主人公と叫ぶ己と、と応えるもう一人の自分である。主人公と

叫ぶ自分と、応える主人公の自分が互いに主人公になりきりった尊い姿を見なけ

ればならない。
 昔、私が大徳寺の僧堂へ新参者として入った

とき、僧堂の客殿の一室に「主人公」と書かれた

額がかけられていた。瑞巌和尚の揮毫であった。

この瑞巌和尚とは当時僧堂の師家であり大徳寺

管長の小田雪窓老師の師匠であり先の管長を

された瑞巌宗碩老師のことである。

 私は入門当初はこの主人公なる言葉を知らず、世間的な意味合いの映画や芝居の

主役とか、その物語の主人公と云う知識しかなく、なんでこんな変な語がもっと

もらしく掛けられているのかと不審に思ったものだった。ある時そのことを、

率直に雪窓老師にたずねたところ、笑いながら、主人公の言葉の尊い意味を教えて

いただき、恥じ入ったことを今も思い出す。



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