<今月の禅語>


  風吹不動天辺月 雪壓難摧澗底松 (普燈録)

     風吹けども動ぜず、天辺の月
        雪壓
(お)せども摧(くだ)け難し、澗底(かんてい)の松




 風が吹くと地上の草木はすぐにざわざわと揺れ騒ぐ。天空の雲も風に煽られ形を

変えて流れ去る。だが天上の月だけはどんな風が吹こうと動ずることなく、何処

吹く風とばかり無心にして輝く。また、雪が降り積もれば、多くの草木はしおれ

たり、おしつぶされてしまうが、谷あいの厳しい環境の中で生え育った松は大雪

にもびくともせず緑あざやかにして、また無心に松声を吟じている。


このように人も、どんな誘惑や扇動にも惑わされず、また、

どんな艱難困苦に会おうとも決して負けることのない強い

信念や意思をもって、堪え忍ぶことの大事さを示す言葉である。

 また『八風吹けども動ぜず』という同意語があるように、

世の中はただの自然の涼風、嵐風ばかりではなく、人を

惑わす「利衰・毀誉・褒貶・苦楽」の風がある。だが、

たとえ如何なる風が吹こうとも、天辺の月のように超然と

して惑わされず、泰然とした心境で日々を過ごせたらなん

と楽しいことだろう。・・・という一般的な解釈でも

よいが、禅語としてはさらに仏意を含む言葉へと深めて

解釈されねばならない。

 禅者はよく清澄なる月の輝きや、円満の月を誰れもが仏から頂いている仏性に

たとえられることが多い。人間が生まれつきもっている仏心、仏性は、本来の

世界から考えれば、どんなに煩悩の嵐が吹いたとしても消えてどこかへ行って

しまうとか、汚れてしまったり壊れてしまうことはないのだ。

 だが、われわれ凡夫の人間には百八の煩悩ならず、

八万四千の煩悩があるといわれるくらいに、その

仏性、仏心に煩悩の雲が覆い曇らしている。その

煩悩のありかこそ真理に暗く、迷いの根源である

無明が原因となっている。

真理に暗き故に惑
(まよい)の芽が出て、惑いによって煩悩を造り悪業(あくごう)を重ね、

その悪業によって自ら苦しみの世界を作っているのだ。その無明なることを知り、

真如の光、真理の悟りの光さえあてれば、無明煩悩の雲は晴れ、円満具足の仏性は

天辺に輝ける月はあらわれる。いや、すでに天辺においては曇ることなく輝き

続けていたのだ。



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