<今月の禅語>
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莫は「なかれ」と読み、妄想は誇大妄想と普段に遣う虚妄の想念。現実からかけ 離れた空想、夢想のことで、正しい考えでない状態をいう。私たちは普段の生活に おいては多かれ少なかれ煩悩妄想に支配され惑わされ、苦悩に呻吟していると いっても過言ではなかろう。自慢するわけではないが、少なくとも私に限れば 「お前は妄想のかたまりだ」といわれても抗弁できない日々妄想のなかにいる。 |
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三毒五欲という貪(むさぼり)・嗔(いかり)・癡(おろかさ) と人は必ず有するむさぼり止まないさまざまな欲望から 起こる煩悩妄想は尽きない。人はまた相対の世界に生き、 一方を取り、他方を捨てようと分別し、またいづれかに 執着して煩悩妄想をつのらせる。すなわち、妄想する ことなかれとは、その相対の取捨分別をすることなかれ と言うことになる。 |
承福寺のホームページの掲示板にあるご年配の男性が「一度正式に座禅したいもの と思いながら、本で読んで見よう見まねで座禅に取り組み、年数だけは30年選手で、 齢50を過ぎますと、折に触れ、死後のことが気になり、できるかどうかわかりま せんが一度じっくり座って大安心を得たいものと、この頃は考えています。この 希望は叶えられるものでしょうか」というような書き込みがあった。まさにこの 男性に「莫妄想」と一喝かませたいところである。 そこでわたしが応えたのが「8世紀中国唐代。熱心に座禅する若き僧に対し、南嶽 和尚は『お前はそこで黙々と座禅をしているが、何のためか?』と問う。 『ハイ、仏になるためです』。そこで南嶽和尚、傍の瓦のかけらを拾ってきて、 砥石でゴシゴシと磨き始めた。 |
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僧問う。『和尚さん何をなされるのか?』 和尚『鏡を造るんじゃよ』 僧曰く『瓦をいくら磨いても 鏡になるわけないじゃないですか。 和尚『それなら、いくら 座禅しても仏にはならんということだわい』と。 座禅を成仏の手段と考えていた若き僧はその一言に己のすべて を打ち砕かれて大ショック。すなわち「莫妄想」である。 |
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禅の道は悟ろうとか、仏になろうとか真理体得をしようと計らい執われる心が すでに妄想なのである。 さらに南嶽和尚は説いて聞かせた。『お前さんは牛車に乗って出かけるとき、 車を叩くか牛を叩くか。』『お前は座禅を学ぼうとするのか、それとも作仏を学び たいのか。もし座禅を学ぼうとするなら、座るだけが座禅じゃない。もし作仏を 学ぶのなら決まった相〈すがた〉などありはしない、形や相に執われるなら、真実の 座禅でもなければ作仏の道でもない』と。 そこで煩悩妄想の塊の私は、さらにこの男性に「座禅で大安心が得られるのなら私が 得たい」ものだと言い放ってやったが、どうも理解は届かなかったようだ。この語は 中国唐代の馬祖道一禅師の門下の汾州無業禅師の語といわれ、無業和尚は常の口癖の ように「莫妄想」を唱え、この語をもって人々を接化教化したという。 |