<今月の禅語>

  一行三昧 (六祖壇経)



一行は「常行一直心」【常に一直心を行ず】から出た言葉だと聞く。直心とは

真っ直ぐで、何の計らいも執われもない、純真で分別も起きない純一な心。

その常行一直心と三昧の語の合わさった言葉が「一行三昧」の語である。

三昧の語は禅の修行の過程において、雑念が払われ純一に、

一点に集中し、そのことになりきった状態をいう。梵語の

サマディー
(三摩地) を音訳したので「定 (じょう)

「等持」の意がある。

世間的によく用いられる「釣り三昧」とか「ゴルフ三昧」と

いう言い方の三昧と禅で言う三昧の語とは同じに見られがち

であるが、似て非である。

釣り三昧もゴルフ三昧も遊びに夢中程度の意味でしかなく、その行為への執着

執心に没し、己れを忘れ、己れを失っての夢中状態と同意語でしかない。

しかし、禅で言う三昧は全身全霊そのことに徹し、なり切りながらも、なんら

自性を失うことなく、日常底においても持続する境地でなければほんものでは

ない。しかも常に純一無雑にして活発自在な働きをもつ三昧である。

茶の湯に於ける利休は、茶の湯の極意として

「火をおこし、湯を沸かし、茶を喫するまでの

ことなり、他事ある可からず」とのべている

ごとく、様々な作法、決りごと多々ある茶の

湯の世界で、なおそのことに縛られず、

淡々と三昧になって直心の交わりをもって茶を楽しんだ人である。

ただ言葉としては簡単だが三昧になりきることはやはり容易ではない。



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