<今月の禅語>

 忘筌 〈ぼうせん〉 (伝灯録)

   意を得て言を忘れ、理を得て教を忘るるは猶、
         魚を得て筌を忘れ、兎を得て蹄を忘るるが如し





筌は「ふせご」という竹編みで作られた漁具。蹄は兎捕りに使うわなのこと。

筌や蹄は魚やウサギを捕らえるにはなくてはならない大事な道具である。

しかし、それらはあくまでも道具であって、目的ではないはずである。目的は

魚やウサギである。だから、目的の魚やウサギを収獲してしまえば道具は不要で

あって、次に使うまでどこかに仕舞っておけばよいものである。

そこで禅者は悟りを得んとして弁学修行に励むも、

仏意を得、真理を会得すれば手段方便としての教説は不要で

あり、いつまでも理屈理論にとらわれてはならない。ことに、

臨済禅では古則公案を手段として悟境を高めとうとする。

その公案こそ筌と蹄にあたるものである。

目的はあくまでも悟りであり、悟境を磨き高めることにある。

だがその公案に執われ目的を見失ってしまう学道の人が少なく

ない。
病気治療に薬を必要とし、効能書きが大事である。

だが、病気が治ればもはや効能書きは要らない。私たちの日常でも人生の大事な

ことを忘れ、枝葉末節にこだわり、執着していることが多い。あらためて忘筌

(ぼうせん)の語を味わい直したい。

京都にある大本山大徳寺の塔頭に孤篷庵が

ある。開基は小堀遠州で、茶道遠州流で

知られるが、何よりその遠州公の茶室

「忘筌」(国の重要文化財)が有名である。

忘筌」茶席の庭

孤篷庵は先代の和尚からのお付き合いが深く、私が大徳寺専門道場へ掛錫(入門)

するとき、この寺に泊めてもらい、ここから入門支度をして初めてわらじを履いて

道場へ出達した縁ある寺である。

申し訳ないことは、無粋な私は幾度か孤篷庵の茶室「忘筌」の隣の間に、お泊め

頂ながら「忘筌」の意味を解することが無かったことである。関係ない話だが、

孤篷庵の遠年諱の折に同寺所有の国宝・大井戸茶碗「喜左衛門」の箱出しをさせて

もらい、その感触をいまだに自慢に思っているが、それは「忘筌」の心にはるかに

遠いことにちがいない。



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