<今月の禅語>

   夢=(梦)

     一切有為法
〈いっさいのういのほう〉如夢幻泡影〈むげんほうようのごとし〉
  
   如露亦如電〈つゆのごとくかみなりのごとし〉
     応作如是観
〈まさにかくのごときかんをなすべし〉      (金剛経)




仏教では「いろは歌」にあらわされるごとく、「色は匂へど散りぬるを」の

ように、美しく色香漂う花もやがては散ってしまう。世の中のすべてのもの、

すべての現象は実体のない仮の姿(仮相)で夢幻の如きものだという無常の

思想がある。(諸行無常)

その実体のない仮の相、仮の世を真実なもの、永遠なものと勘違いして、捉われ

執着して迷っているが、それははかない夢幻、泡影のようなだと諭す。

本当かどうか知らないが、豊臣秀吉の辞世の歌とされる

「露と落ち 露と消えにし我が身 かな 浪花のことは

夢の又夢」というのは有名である。富も栄華も限りを

尽くし、死にゆくもののはかなさを感じる。良寛和尚と

貞心尼の色恋でない、共に生きるものとしての歌のやり

取りの中には人生の奥深さが深く染みわたり真似の出来

ない暖かな心の交流がある。

その中に

君にかく あい見ることの うれしさも まださめやらぬ 夢かとぞおもふ (貞心)

ゆめの世に かつまどろみて夢をまた かたるも夢よ それがまにまに (良寛)


貞心尼の歌で、彼女は、真実にあるものと夢の世界とを区別したうえで、自分が

今経験していることが夢でないことを願っている。これに対して、良寛の返歌は、

夢も実在も区別していない。たとえ、はかない夢の中にあって、夢物語を語って

いるときですら、私たちは至高の実在に触れているのだと、そのように良寛は

言っているようだ。

余談だが、古来より日本人は「夢見」にうるさい民族ではなかろうか。夢の吉凶に

一喜一憂して、よい夢をみよう願うのは今も昔も変わりない。中でも一年の最初に

みる「初夢」に対しては特別な思い入れがあるようだ。「夢」とは一体何なのか、

そこにはどんな意味があるのか。さてさて今年の初夢はなんだろう?

今年一年の運勢が決まるといわれる「初夢」。

一般的に一富士、二鷹、三なすび」が吉相の

夢と言われている。このいわれは何か。

諸説紛々あるらしい。有力な説としてある

のが徳川家康。家康がまだ駿河国の領主

だったころ、富士の裾野で鷹狩りを楽しんで

いた時、たわわに実るナスの畑を見て

「日本一の富士に、吉鳥の鷹、そして

ナスとは大吉兆じや。我が運は大いに

栄える」と。確かに家康は天下をとり、

徳川幕府260年の礎を築いた。・・・

という説はどうも嘘くさい。

一富士、二鷹、三なすび」の富士は「無事」、鷹は「高く」、なすびは「事を成す」

という説が一般的である。これなら納得できるが、私は「富士は信仰に基づく霊峰

であり高さ、姿かたちすべてにおいて美しく誰もが認める日本一の山である。

鷹は強く勇ましく、日本の鳥の中では最強の鳥として畏敬され、珍重され、

愛された鳥である。茄子は千に一つもあだ花がないと言われ様に、子孫繁栄を願うに

相応しいものとして尊ばれたのだろう」と解釈している。一富士、二鷹、三なすび」

の富士は「無事」、鷹は「高く」、なすびは「事を成す」という説が一般的である。

これなら納得できるが、私は「富士は信仰に基づく霊峰であり高さ、姿かたちすべて

において美しく誰もが認める日本一の山である。鷹は強く勇ましく、日本の鳥の中で

は最強の鳥として畏敬され、珍重され、愛された鳥である。茄子は千に一つもあだ花

がないと言われ様に、子孫繁栄を願うに相応しいものとして尊ばれたのだろう」と

解釈している。

沢庵和尚の頂相
実はこの三つ他にも縁起のいい物がぞろぞろと続くらしい。

四番目は「扇
〈おうぎ〉」で、五番目に「煙草」、六番目に

「座頭」。こうなるともう、どうこじつけて説明出来るのか

私は自信がないし、禅語の「夢」とはおよそ関係ないことである。

禅語としては、沢庵禅師の死に臨むにあたっての辞世の偈の「夢」

がよく知られる。夢の字を大書してその横に「是亦夢非亦夢 

弥勒夢観音亦夢 仏云応作如是観矣」(是もまた夢、非もまた夢、

ミロクもまた夢、観音もまた夢、仏云く、正に是
〈かく〉

ごとき観を作
〈な〉すべし)と書き遷化(高僧の死)したという。

夢は理想や希望や空想みたいな非現実的ものから、実感としてまごうリアルな、

まさ夢などがある。心理学的にも、宗教的にも夢の分析はなされているかも

知れないが、沢庵禅師が残した夢には、単に無常のはかなさを嘆くものではない。

沢庵は、この世にある一切のものを、仮相なることの真理を悟った境地から

「いろは歌」の「浅き夢みじ、酔ひもせず」のように、悟りの世界に至れば、

もはやはかない夢をみることもなく、現象の仮相の世界に惑わされ酔いしれる

こともない安らかな心境を、「夢」の一字にあらわしたのだろう。


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