<今月の禅語>

  他是不有吾 (典座教訓) 他は是れ吾にあらず



今年の夏はことのほか暑い。いよいよ八月盆も近まり、

お施餓鬼などの盆行事を控えて、境内の草取りなどに

おわれるが、この炎天下の作務はつらいものがある。

クーラー効いた室内から外へ出るのが億劫になるとき、

ふと思い出すことばがこれだ。「他人は私ではない」

という意味の言葉で、至極、当たり前のことであるが、

この言葉の意味するところに禅者の修行の厳しさが

伝わり、安穏と過ごしている私の怠け心に、

この言葉がずきりと刺さる。


曹洞宗を日本に伝えた道元禅師が、中国に渡り天童山の如浄のもとで修行を

始めたばかりの時の体験談として語った中での言葉。

ある夏の日中、見るからに年老いた典座(てんぞ=

禅宗の修行道場の台所を預かりる役目の僧のこと)

が灼熱のもと、敷き瓦の上で、汗だくになりながら、

椎茸をひろげ干しているのを見た道元は「どうして

あなたの様なお年を取られた方が、こんな熱い中

でのきつい作務をされるのですか?なぜ若い人に

やらせないのですか?」と問えば、その老典座は

「他は是れ吾に非ず」と



道 元 禅 師
〈他の人は私ではない、私がこの作務を通して修行をしているんだ、人にやらせた

のでは自分の修行にならない〉 さらに道元は「でもなぜこんな暑い中にやるの

ですか?」と問えば、老典座は「更に何れの時をか待たん」と。〈今でなくて一体

いつやるのか〉 これに対し道元は二の句がつげなかったという。

道元の若かりし時のことである。老典座のしていた作業を、修行とは別のことと

見ていたのが大きな誤りであることに気づく。

道元禅師が開いた永平寺

禅門道場(僧堂)内の仕事の役配には

いろいろあるが、典座という食事作りの役は、

単なる下働きの役でなく、かなり修行を

積んだ人に与えられる大事な役目なのだ。

何の役であれ、すべてが修行であり、与え

られた役配を全力で勤め上げるのが大切である。

怠け心から、ずる賢く「きついから人にさせよう、暑いから涼しくなってやろう」

というのは修行者の心ではない。

この頃は、社会にあっても「如何に合理的に、要領よく、手抜きし、楽に金儲けが

できるか」ということに価値を求め、3K(きつい、汚い、苦しい)の仕事がきら

われる傾向にあるからこそ、この老典座のことばに、ある種の輝きと清々しさを

感じる。


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