<今月の禅語>
便是人間好時節(無門関) すなわち是れ人間の好時節
この言葉は、中国宋代の傑僧、趙州和尚と師の南泉禅師の問答の語に対するコメントとしての 無門慧海禅師の頌の一節である。 その問答とは 趙州問う「如何なるか是れ道」 南泉曰く「平常心是れ道」である。 頌とは漢詩の形式で、君主や名君の徳を称える韻文を言ったが、禅宗では宗旨表したり仏徳を 賛える詩としている.。 その頌が 春有百花秋有月 春に百花あり 秋に月あり 夏有涼風冬有雪 夏に涼風あり 冬に雪あり 若無閑事挂心頭 若し閑事の心頭に挂(かかる)こと無くんば 便是人間好時節 すなわち是れ人間の好時節 春は百花繚乱として咲き誇り、秋は月が冴えて美しい. 夏はまた炎暑の中の涼風が何とも言えず心地よい.冬も雪景色の風趣がすてがたい。 春夏秋冬それぞれに趣があって誠に結構なものである。 だから、閑事、つまらぬことにあれこれ思い煩う事が無かったら、 春夏秋冬いつでも人間にとっての好時節である。 |
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春は花 夏ほととぎす秋は月 冬雪さえて 冷し(すずし)かりけり (道元禅師) 自然の動き、四季の移り変りは真に絶妙であるり、 自然法爾(じねんほうに) そのものである。自然という字であるがここでは『じねん』と読む.。 山川草木に人工を加えないのを自然(しぜん)というが、 禅的に言うところの自然(じねん)は、おのずから、そのようにとか、 真理のままにというような有らしめられている現実そのものを言い、 単なる自然(しぜん)とはちがうし、ここでは自然(しぜん)を賛える ことの言葉だけの意味ではない。 そこで、次の節の「若し、閑事の心頭に挂ること無くんば----」 が大事なのである。 |
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とかく人間というものは、三毒五欲の煩悩に迷い、閑事の、どうでもよいこと、つまらぬこと、 むだごとに囚われて、嘆いたり悲しんだりである。そういう閑事にとらわれたり、迷い、 己を見失うことがなければ、春夏秋冬いつでも人間の好時節なのである。 それは自然(じねん)法爾(ほうに)の中にいきることであり、生かされてあることなのだろう。 それがすなわちそのまま仏の道であり、そのままであることが南泉禅師の言うが平常心なのである。 |