こころの紋様 -ミニ説教-

~裁かず、責めず~

- 如何に「信」を育てるか -



 人が生きていく上で人間関係ほど難しいものはなく、悩み事の種として最も多いのが人間関係かも

知れません。もっとも身近な親子関係、夫婦関係のほか、昔より古くて今もなお現実的問題として

多いのが嫁と姑の間柄です。こんな身近な者同士が、なぜいがみ合い相い争い、憎しみあうことに

なるのでしょう。否、身近なるゆえに起きる悩みかも知れません。更に育ちも環境も違う生活をなす

他人が寄り合う職場や社会であればなおのことです。また子どもは子どもの世界の人間関係が

あり、大人の窺い知れない子どもなりの複雑な心理状態の人間関係があってのいじめや自殺で

あったもします。
 しかし、人は一人では生きていけないのです。

すでに生まれたときから親子の人間関係が始まり、

成長と共に人と人との交わりも広まりの中に、人間

関係を学んでいかねばなりません。

 だが、その人間関係の広がりは、更に第三者が

絡まり複雑になっていくため、問題は容易に解決

できず、こじれてしまい、悩みの種を生み、或は

争いとなってしまうことは幾度も経験をしながら

成長してきたことでしょう。

   私自身も人生における人との出会い、ふれあいの中で、自分の好みの人ばかりではなかったし、

自分と全く同じ考えの人との出会いは少なく、むしろ嫌な人、相容れない性格の人や考えの違う人

との交わりを余儀なくさせられることの方が多かったかも知れなません。

 こんな出会いをいったい誰が決められたのかと思うと、不思議であり神秘でさえあるが、これがまた

ご縁というものであろうし、私を成長させていただく大事な人たちだったのでありましょう。

 最近私は人との出会いの中で、心に言い聞かせていることは、どんな時でも相手を「責めない、

裁かない」ということです。今まで住職として多少の悩みや相談ごとを聞かされて、その都度

「あなたが間違っています」「あの人が間違っているかも知れないけれど、相手を変えるよりあなたが

変わることが大事です」とまるで裁判官のように判決を下し、そのように解決の道を示唆し、押し

付けてきたことでした。だが、裁かれ責められる当人にとっては面白くはないのです。言われた

人にとっては、理屈では分かっていても「でも、あの人も・・・」という思いが残り、訴えの気持ちが

分かってもらえないという不満や悔しさを抱かさせるばかりで、何の解決にも相談にもなれ

なかったことを反省させられました。

 人間は被害に関しては敏感であるが、加害には

鈍感で気づかないことが多いものです。

 「私はこんなに我慢しているのに・・・」「こんなに

苦労しているのに・・・」と被害者意識は強く、

常に善人は私であるとしてこなかったでしょうか。

 「他人の一寸は見ゆるけれど、わが一尺は

見えず」という諺があるが、他人を批判する

ことは容易いが、自分自身を振り返ることは

結構難しいものなのです。

 被害者はいつも自分で、加害者はすべて他人であるように思いがちなのです。「そりゃ、私だって

悪いかも知れないですよ。でもね・・・」とこの「デモね・・・」の言葉が余計なのです。

 私たちは自分にとって都合の悪いことや、自分の意見や考えに反対されたり、否定され、或は

厳しいことを言われると、心穏やかならず、つい反論したり、よせばよいのに「あなただって・・・・」と、

逆に相手の悪いところや欠点を指摘し、糾弾してしまうことだってありがちです。

 まじめで一生懸命な人ほど、他人の中傷や悪口に傷つき、心の痛みも大きく、悩みにしてしまい

がちなようです。こんなとき、誰かに味方し誰かを裁き誰かを責めようとしがちですが、わが反省と

して、事の次第を聞いても、常に裁かず責めず、善悪の価値判断を捨てて、それぞれの言葉の

奥底にある思いを汲み取り、祈り清めてやれることが大事なのだと思ったことでした。

 そして何より、如何に「信」を育てるかが一番だったようにおもいます。



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