こころの紋様 -ミニ説教-
~心の眼を開く~
- 真実を見抜く -
ある剣豪の話です。一人の若き剣客が武者修行のために諸国暗偈していました。 とある山中を歩いていて、一本の丸太橋にさしかかりました。下を見るとまさに千扨の断崖、川水は 轟々と岩を打って流れ、眼もくらむばかりで膝頭がガタガタ震えて渡れません。 そこへヨタヨタと杖をたよりにした座頭さんがやってきて、何のためらいもなく、いきなり草履を脱いで、 持っている杖に草履を突きさし、背中の帯にはさみ、それから四つんばいになって丸木橋をするすると 何の苦もなく向こう側に渡ってしまいました。 |
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この一部始終を見ていた剣客ははっと何かを悟り、 その後さらに修行を積み工夫を重ねて無眼流を編み 出したということです。その剣の達人の名は反町無格 といいます。これを つまり、眼は人間にとってなくては ならぬものでありますが“真の極意”というものは、 表面的に見える目でなく目には見えない真実を 見抜く心眼こそ大事であるこをあると悟ったのです。 |
眼で見れば絶壁の上に立つあぶない我、天地の中の一個の我であるが、眼を閉じれば天地すべては 我の中にある。千扨の谷も、激流の音も、我の中に見、我の中に聞くのです。仏道の極意もまさに “眼”を超えたところにあるのかもしれません。 私たちは目が明いているから、有難いことにいろんなものがよく見え、本を読んだり書いたり、テレビを 見たり映画を楽しみ、また山や海の景色に感動したりして楽しんだりできます。しかし、目が明いている から何でも見えるかというと、実は目があり、何でもよく見えるからこそ、逆に目先のことに誤魔化され たり、本物が見えなくなったり、表面ばかりしか見えず、その裏側や内面が見えず、真実の物を見失っ たりすることさえあります。むしろ目が見えない方が帰って本物が見えることだって少なくありません。 |
私たちは考え事をするとき、よく目をつむり、その事柄を思い。 またその情景を頭に描いて考えるものです。 それは目をつむったほうが目を開いている時より、その状況が よく見えるからでしょう。目をあいたままでは、他のことや周りの 状況が見えて、よく見えて邪魔になり、雑念となって考えに 集中できにくいものです。 |
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この老僧の私など未だに凡夫のさ中にあって街で美人に出会うと 「わっ、美人だなぁ、なんて素敵な 人なんだろう」と思わず振り返り、前からくる自転車にぶっかりそうになるばかりか、もう心を奪われて、 その本性など見定めることなどできません。俗に恋は盲目と言われるように恋に夢中になり、のぼせて しまうことにもなりかねません。もう見えないも同然です。やはり真実を見抜く眼を備えておきたいものです。 |