こころの紋様 -ミニ説教-


〜生も死も自然の営み〜

- 死に行く者の心得 -


  「死にゆく者は死んでから先の自らの遺体の行く末については祀る人にまかせよ。自らの遺体とは

いえ死んでから先はもう自分にはその支配権はないのだ」と言うお話を時々することがありました。

 このことに対して少なからず反響があり、お便りを頂いたりして、あらためて墓や死後に対する関心の

高さを教えて頂いたものです。その中のあるご婦人のお便りに、現代日本の信仰事情が凝縮されて

いるように思いました。
  それは「先般お説き頂いたお墓や遺骨の祀り方に

ついての問題は、まるで私の身の周りのことのようで

考えさせられました。私自身特定の宗教はなく、死ん

だら骨は粉にして空の上からまいてほしいと思って

いました。でもそれはちょっぴり寂しいから一つまみ

ずつでも実家のおじいちゃんの墓と嫁ぎ先の今の家の

墓に入れてほしいなどと勝手なことを考えていました。

 でも、もう一度考え直す必要がありそうですね。

 里の方の墓もバラバラで、親が途中で信仰を変えたため、祖父と祖母の墓が別々なのです。

私は死ねば皆一緒なのだと思いながらも、このことがとっても悲しく思っています。宗教によって一致

団結できれば、これほど強いものはないと思います。でも逆にバラバラだと一変して宗教が悪に見えて

きて、宗教が信じられなくなります。わたしの実家は以前は浄土真宗、祖父母は禅宗、祖父が亡くなり

西本願寺に祀る。その後父は浄土真宗から日蓮正宗に変わる(家族も全員一緒)。

 だが、祖母は自分が死んだら西本願寺の祖父と一緒にしてほしいと遺言。しかし、日蓮正宗の

大石寺に納骨堂される。私の母がなくなったときもやはり大石寺に納骨。しかし、跡取りであるはずの

兄嫁が「ものみの塔」にはいり里の宗旨や先祖祭りの後継者は出来ないという。

 父、姉はまじめな日蓮正宗なので父母の納まるお寺には

お参り出来ないらしい。私の嫁いでいる現在の家は浄土

真宗で、夫は次男なのですが、一応跡取りとして祀りごとを

しなければなりません。複雑な気持ちでお線香を上げて

います。(後略)」と言う便りです。

 私は遺骨の処理については、その故人を葬り、祀る人の

事情にお任せすべきではないかと言い、死にゆく者が、

何処でどのように祀ってほしいなどと自分の遺骸、遺骨に

まで未練がましく執着したり、差し出がましく言うべきでは

ないと考えています。

 自分の遺骸がどう処置されようとも、大事なことは自らの霊体(みたま)の行く末なのです。

彼の世への旅立つ魂の真の往生、即ち御仏に導かれ正しく輪廻の軌道にあって、安らかな世界へ

趣かれゆく事こそ大事なことであります。人の人情としては死んだ先も好きな人と一緒のところで

眠りたい、好きな海や山の見える所がいいなどとの願望はそれなりに理解できるのですが、

しかし何れに埋葬されようとも、彼の世における霊魂の向かうべきところは別なのです。

 何時までも遺骸、遺骨に執着、執心すると言うことは何時までも往生出来ないということで、

それは何時までも浮かばれないということなのです。



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