こころの紋様 -ミニ説教-


〜喪に服することの意義 そのA〜

- 追善供養は誰のために -


 葬式のお勤めを終えて、火葬が済んだ直後なのに、遺族、親族の都合でその日の内に初七日の

法要を行うと言うことは、例えばお客に夕食を振舞って、間も無くしてまた、明日の朝食を作るのが

面倒だし、手間がかかるので今日のうちに明日の朝食も食べてもらっておこうと言うのと同じ理屈に

思えます。このようにいくらありがたいお経でも、立て続けにやられる故人はもう、うんざりといった

ことかも知れません。

 読経するお坊さんはどうでしょうか? 形式的にでも

早く済ませたほうが早く片付き合理的かもしれませんが、

つい先ほどの葬儀において力の限り今日を読み、引導

させていただいた、つまりその日の十分なご馳走を

出させていただいたと言う気持ちでいるときに、さらに

続いて初七日のお経、つまり翌日の朝食や昼食も

ついでだから食べさせてやってくれ、と言われるのに

似て、葬式当日の初七日の法要なんて出来ないと

いうのが私の正直な気持ちです。

 やたらお経を上げることが故人の供養でもなく、追善となるとは限りません。お経さえ読んでもらって

おけば形は整い、一応の体裁は済むという安易な依頼ほど、故人に対しても引導をなす者に対しても

失礼な話なのです。 むしろ遺されたもの立ちが、故人を偲び故人の追善のために、自らの精進の誓い

をどう表し、喪に服していくかが大事なことなのです。その服喪の精神を忘れ、とにかく葬儀当日ないし、

三日のとりあげや、とりあえず初七日忌までやってしまえば何とか片付くし、親類縁者にとっては義務を

果たしたことになるというのは、あくまでも遺族親族側の勝手な都合であり、故人にとっての追善とは

いえません。ましてや何の精進もしないものが“精進おとし ”も精進明け“もないものです。

 精進とは仏教徒として仏の教えを守り、悟りの境地、やすらいの世界を目指していこうとする日々の

努力を言います。だから“精進”は仏教徒の大事な修行徳目の一つであり、生涯にわたって持ち続ける

べきものであります。




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