こころの紋様 -ミニ説教-


〜喪に服することの意義〜

- 追善供養は誰のために -


 お腹一杯にご馳走を頂いたすぐ後に、さらにご馳走を出されると「もう結構です」いいたくなる

ものです。最近はもう当たり前のように「遠方の親類が多いものですから、火葬から帰りましたら

初七日の法要まで済ませていただいて精進明けにしたいと思いますのでよろしく!」と言う申し出が

多くなりました。確かに遠方からの縁者にとってはあらためて初七日だからと言って再び出かけて

くることは大変なことです。かといって葬式からずっと葬家に逗留しているわけにも参りません。

 そこで葬式当日、とりあえず初七日までの一連の法要を済ませて、精進明けを繰り上げてもら

えば、後は日常生活に戻れるし、親類としての義理も果たせて、誠に都合のよいアイディアなの

です。親族一同協議の上の申し出なのでしょう。

 私は葬家の煩わしさを早く解消したいと言う気持ちと遠方の親類

としても義理をはたしておきたいという気持ちはよく分かるし、寺側

としても一日のうちにまとめて済ませられるものなら、ついでにと

言うこともあり、そのほうが合理的であり楽であることに違いあり

ません。だから葬儀当日に三日のとりあげとか初七日の法要も

ついでにやってしまおうと言う風潮が一般的になりつつあるのかも

知れませんります。しかし、依頼される導師の私としてはいささか

奇異な感じがして、その対応に苦慮することも少なくありません。

 人が死に、その御霊(みたま)が行くべきところ、即ち往生をとぐるまでを四十九日間とする中陰と

言う仏教思想に基づいて行われてきた七日ごとの法要を必ず行うべきだとか、葬儀万端終了後の

一席を設けて個人を偲び、また何かとお世話をしてくださった方々、親類縁者の皆様に対してご馳走

を振舞い、労をねぎらうと言うしきたりまで否定するものではありません。

 人は死してすぐに仏に導かれて往生をとぐるという宗旨もあることですから、人が往生をとぐるのは

必ずしも四十九日間とは限りません。それぞれの因縁に基づいてすぐに往生をされる方もいれば、

この世への執念、執着を断ち切れず、お坊さんの引導や法要の甲斐もなく、何十年でも往くべき

処へ行けず、御仏の導きに与れないで幽界に迷っている

人〈霊〉もいることであり、中陰思想に固執するものでもあり

ません。しかし、亡くなられた故人に対する思いを大切に

したいという気持ちから私は縁者の都合を優先して葬式

当日に精進明けをしてしまおうと言うのは、なぜかつれない

気がしてなりません。

 四十九日忌における往生云々の是非はともかく、何より故人のために無事なる往生を願い、

遺された縁者が仏教徒としての精進を御仏に誓い、謹んで喪に服するのが近親縁者としての

つとめであり死者に対する礼儀であり、喪に服するものの姿勢でありましょう。

 即ち葬儀を終えてからが本当の「精進のはじめ」であると申せましょう。その気持ちを形として

表し、御仏に供養し故人のよりよき往生、導きを願って行うのが追善法要であったはずです。

 つまり追善法要はあくまでも故人のために行うものであり、遠方の親類縁者の都合や義理を

果たすために行うべきものではありません。



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