こころの紋様 -ミニ説教-


〜自分の葬式より生き方〜

- 自らの魂の救いこそ大切なこと -


 時々雑談の中で「俺は悲しみにくれる葬式は嫌だから、線香を立ててもらうことより酒の一杯を

供えてもらい、皆さんには宴会をやって賑わってもらいたい」などと言う人がいます。

 その希望はともあれ「じゃあ、あなたがもし自分が喪主となって、お身内の葬儀をしなければ

ならない立場であったら、故人の言うとおり葬式をやめて宴会をやってパッとさわげますか」と

問いましたところ、一瞬戸惑い「いやぁ、たぶんそれはできないかも・・・」といわれます。

 「戸主のあなたが出来ないものを親類縁者が大勢集まる中で奥さんやお子さんたちが宴会

なんてやれるわけがないでしょう」とたしなめたことがありました。

 自らの死についてこだわり、自分の死んでから

先の自分の遺体の行く末に何時までも執着を持つ

ということは、真なる往生が出来ぬということなのです。

 極端な言い方で語弊がありましょうが、遺族の方たち

が故人の遺体をどのように処置し、どんな祀り方を

しようと自らの御霊魂(みたま)が御仏に導かれ、

安らかな世界へおもむかれゆくことこそが尊いのです。

 遺体にせよ、遺骨にせよ真理から言えば単なる魂の抜け殻に過ぎないもので、これは残された人々

が故人の徳とその家の実情に即したい一番ふさわしい、方法にて丁重に弔って下さるはずのものです。

 昔から、死者に言い分は3分で遺されたもののいいぶんが7分だといわれます。だがそんなことより

死に逝くものはその方たちを信じお任せになるべきであり、いたずらに故人になるべきものが自らの

死に逝く先々を云々し、指示し、言い置くことは場合によっては故人のわがままであり、現実にそぐわぬ

言い置きの場合などある面遺族に経済的、時間的心理的余分な負担を負わせたり、思い煩わせること

にもなりかねません。

 誰が故人たる我が親、わが妻や夫を粗末に致しましょうや。

いやもし粗末にされるとすれば、その人の生きてきた生活

態度なり、家族に対する心遣いを自分が粗末にしてきた報い

ともいえましょう。先ずは自分の死にゆく先のことを考えるより、

生きている今を大切にし、家族から慕われ惜しまれて死ねる

ような生き方を心得るべきではないかと思います。

 自らの葬式云々、祀られ方云々より大切なのは、自らの霊魂〈みたま〉が死後に迷うことなきよう、

この世に残す執着や未練、欲望を浄め、断ち切り御仏に導かれ救われ、往生できるよう、今の命ある

間の心の修行こそ大事なことのように思います。たとえ、どんな立派なお気に入りのお葬式をしたり、

お気に入りのお墓にしたところで自らの魂が救われずにあの世にゆけず幽界にさ迷っていては

話になりません。



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