こころの紋様 -ミニ説教-


〜現代葬送考〜

- 死にゆく者の心得 -


 昔から特殊な事情がない限り、妻は死んだとき嫁ぎ先の先祖の墓や、新しい墓を設ける場合でも

夫婦は一緒の墓に葬られるのが一般的でした。今も大半はそのように葬られているのではないかと

思います。しかし最近では自分が死んだとき「夫と一緒の墓に入りたくない、夫の家の先祖代々の

墓に入れてほしくない」と言う主張の妻たちが増え、中には自分の墓を別途に買い求めているという

話も耳にします。その是非はともかく、夫婦関係や昔から連綿と続いてきた家制度が女性の自立や

少子化、人口減少と共に変化し、崩壊してきているようです。これも新しい時代の波でしょう。

 「死んでから先まで家のしがらみに縛られ、墓の中まで夫と一緒に居たくない」と言う妻たちの

心情は理解できますが、この別墓現象を素直に賛成だという思いはありません。

 ある老婦人の話です。既に夫に先立たれ、大阪

勤務の息子たちとは別暮らしで一人住まい、病弱

ゆえに自分の死について考えることがしばしばだとか。

 「息子たちはどう考えるか知らないが、遠くの夫の

実家の墓にいまさら入れてもらうより自分が死んだら、

ご縁をいただいた承福寺の和尚様に弔っていただき、

承福寺に葬ってもらいたい」との申し出がありました。

 私を信頼し、承福寺の環境を好んでいただいてのことゆえ、ある面ありがたいことではありますが、

なぜか心淋しい気がしたものです。年を老い、一人暮らし、その上病身であればなおのこと、自分の

先行きのことを案じ、もしものときの自分の身の処し方、処され方を考えるのは至極当然なことなの

かも知れません。いやこのご婦人ならずとも結構若い人でも自分が死んだら、葬儀はこうしてほしい

とか、墓は何処へとか、お骨は粉にして海にまいてほしいとか、現実はともかく死後の遺体の処置の

あり方への願望や考えを抱いている人も少なくないようです。なるほど願望を抱き、希望を伝える

ことは結構なことですが、しかし、あまりにも現実にそぐわず、世間の習慣や常識とかけ離れた願望

や希望によって遺族の者たちが大変な目に遭ったり、悩んだり、迷惑をかけてられてしまうことも

案外多いものなのです。

 もう何年も前のこと。広島からここ宗像へ転住されていた方が亡く

なられる前に家族のものに「自分が死んだら遺体は献体し、社会に

役立ててほしい。葬式はしなくてよい。戒名も要らない等々」言い

残して亡くなられました。余程奉仕の精神がおありの方だったの

でしょうし、現在の世俗的、形式的葬儀に対する批判の目もお持ち

だったのかも知れません。また、葬式をすればかなりのお金もかか

るし、大勢に迷惑をかけて気の毒だと言う気持ちもおありだった

ようです。確かにそれはご奇特なお考えではあります。奥様を

はじめお子様たちはそのご主人の意思通りに弔いは病院内で

家族だけの密やかなお別れの式のみで済ませました。

 ところがあとでこれを知った親戚の者たちは驚き怒り、また生前親しくしていた友人や知人やご近所の

人たちからは、今までのお付き合いのすべてを無視されたような思いで受け止められ、遺族に対して

不審の目が向けられ非難されたり白い目を向けられたと言うのです。故人の意思を護ったがゆえに

遺族の者たちは周囲の批判の目、非難の声に耐える毎日を送らねばならなくなったと言うことでした。

 その奥様が「夫の意思を一年を守り通したのだから、せめて一周忌なりとも親類縁者を招き、その節の

無礼を詫び、故人を偲ぶ法要をしたいので」と承福寺へ家族そろってこられました。その方にはこれと

言う菩提寺はないということでお引き受けしたものですが、そのとき、自分の死後の遺体の支配権は

あまり主張すべきことではないのではないかと思ったことでした。たとえ自分の死後の遺体とはいえ、

その処置については本人の意向を十分考慮されるとしても、その決定や方法については、遺された

伴侶なり子どもたちが協議し計らって一番よき方法にて行われることが自然な形ではないかと

思えてなりません。



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