こころの紋様 -ミニ説教-
〜死に際の美学〜
- 武士道とは生きることなり -
一般的には人は誰でも生を喜び死を嫌うものです。昔より生はめでたく、死は忌むものとして敬遠され ていますが、生がある限り必ず死が伴うということは避け得ないことであり、永遠の生は未だ曽てあり ません。生があるところ必ず死があると言うのが古今東西変わらぬ事実であり、生と死は別々のもの でなく「生は芽生えであり、死は実りである」とも言われるように、表裏いったいのものに違いありません。 昔の書物の「葉隠(はがくれ)」の中に「武士道とは死ぬることと見つけたり」と言う有名な言葉があり ます。「葉隠」の内容の如何はともかく、この書物が武士道の鑑(かがみ)となり、武士道と言えば 「葉隠」とさえ言われるほど、武士道精神のバックボーンなっていたとさえ言われています。 |
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確かに戦に臨み、死を怖れていては十分な働きが出来 ません。しかしこの「死ぬることを見つけたり」と言う「死ぬる」 とはいかなる場所、如何なる時、如何なる場合でも平気で 死ねるようになることなのだと言う単純な意味ではない はずです。単なる命知らずや犬死にも等しい安易な死を 賛美するものではありません。 |
この「葉隠」精神が武士道に通じると言うことは「死ぬることを見つけた人の心の中にはもう生もなく 死もなく生死を超越しています。古人の歌にも「生きながら死人となりてなりはてて 思いのままにする わざぞよき」〈江戸期の傑僧・至道無難禅師〉と言うのがありましたが、禅の修行では先輩から「死に 切れ」と厳しく諭され励まされ大死一番を要求されました。死にきってこそ生死苦悩の分別の世界から 超脱〈超越し解脱〉出来るのだという教えなのです。勿論のことですが「死にきれ」とは自殺的に本当に 自らの命を絶つと言うことでは決してありません。生死のとらわれなくして、より命を輝かせることでも あるのです。武家が禅の思想を好んだのも、死の超脱を常に考える立場からでしょう。「死ぬる」ことは 生死を超脱して大義に生きること、生を行ききることでもあります。だから武士道に徹し「死ぬること」を 見つけた人は、いかなる場合でも平気で死ぬことが出来ましょうし、逆にいかなる場合でも平気で生き |
抜くことが出来なければならないのです。 だから、武士道とはいたずらに死を美化するものでは 決してありません。死を怖れないと言うことのみが武士道 とするならば命知らずのヤクザや暴走族やひ弱な 現代っ子の自殺願望者ほどの薄っぺらい武士道に なってしまいます。 |
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自殺は病苦、貧苦など様々な理由が挙げられましょうが、ある面心弱き者の現実逃避の常套手段 にも思えるし、生命の尊厳性を傷つけ、死の美学を汚すことにもなることでしょう。御仏の与え給う命 なれば御仏のお迎えがあるまで生きなければならない義務があるのではないかと思えますし、 いかなる場合でも決して勝手に死ぬ権利はないのように思います。このことを大前提として我が命を 神仏に預け、たとえいかなる苦難の中でも逃げることなく、苦の中に苦一杯になって生き抜く覚悟こそ 「死ぬることと見つけたり」と言う武士道があり「大死一番絶後に蘇る」と言う生きる力がもたらされる ことでしょう。また同時に生を精一杯に生き抜いてこそ、はじめて死の美学が存在することでしょう。 |