こころの紋様 -ミニ説教-


〜死に方より生き方〜

畳の上で死にたい人のため


 最近の若い人たちはともかく、先輩者としては「畳の上で死にたい」という願望は少なからずあるように

思われます。長寿社会の中で認知症の問題、老人介護など人事でなく身近で切実な問題となってきた

ように思えます。ある時の信心の集いで一人のご婦人が「私は方々の寺参り、宮参りをして信心をして

きましたから、人に笑われるような死に方はしたくない。『あぁ、あの人はやっぱり信仰していただけの

ことはある、死に方が美しい』と言われるような死に方をしたいと思ってます』と言われたことがある。

  人の一生は死に際や、死に顔で決まるというぐらいです

から、誰でも、苦しみ、のたうち廻るような死に方はしたくない

ものだし、家族に見守られ穏やかに美しく安らかな最期を

迎えたいと思うのは当然でしょう。それなりにかっこよく死に

たいと言うことでしょうか。『さすがに信心をされてきただけに

好いことをおっしゃいますね』と一応褒めはいたしました。

 仰をしているから笑われないようにとか、信仰をしているから立派に見られようというかっこづけでは

何となく偽りがあり、計らいがあり妄想の所作にも似て本当の信心家には思えない気がしました。

 かつて本山への団参のおり、京都市内を大勢で歩いているときのことです。さほど車の通りも少ない

時間帯の交差点を渡るとき、行列の途中で信号が赤に変わりました当然交差点内の人は急いでわたり、

手前の人は次の青信号を待つことになります。その時信号手前で止まった一人が「普段だったら、

こんなに車が通らないときは信号無視して赤でも渡るんだが、境は信心できているので信号は守らな

ければなりませんんぁ」と冗談交じりにいっていました。

 私はこれにたいした「守らんよりましだけど、信心している

から守る、信仰しているから悪いことしないというのは間違う

とりますよ。信心があろうが無かろうが信号を守らんといか

んし、社会のルールや決まりやエチケットは守らないかん。

 信心しとるときだけいいことするなんて裏表のある人間は

仏様は好かっしゃれんのではないでしょうか」と冗談交じり

で叱ったことです。

 これと同じで信心をしているからかっこよく死んでやる、美しい死を示したいというのはどうも信心ごかし

の見え張りに思えました。確かに信心深い人の死というのは安らかで美しい死を迎えられているように

思えます。この世に何一つ思い残すことも無く、御仏にゆだねきり、安心しきった顔に往生の姿を見る

ことが出来ます。だがそれはあくまでの常日頃の信心の結果であるはずで、それは目的ではないのです。

 真に敬神崇仏し、仏の教えを頂き、行いに移す日々の精進の中に神仏は加護し導いてくださり、結果と

して美しく安らかなお迎えが約束されることでしょう。



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