こころの紋様 -ミニ説教-


〜臨終に感動を〜

人生劇場の最後の主役のとき


 昔、当寺の門前に早川フデさんという、身寄りのない八十を過ぎた老婦人がいました。もともと気丈で

几帳面なフデさんでしたが、病には勝てずしばらくは近所のご夫人の親身なお世話を受けておられました。

 やがてフデさんはわが死期を察したのか、あるときから「食事を摂れば汚物がでる。出ればご迷惑に

なるから」といって一切の食事を断ってしまいました。その後医師の手当てもあって十数日の生命を

保ちましたが、何の苦しみもなく安らかな往生をされました。

  驚くことは生存中の元気なときにフデさんはわが死後の周到な準備を

すませられておられたことです。寺への布施や葬儀費のほかにも棺から

塔婆板、米、木炭から火葬用の薪に至るまで、昭和二十年半ばのこと、

まだ葬儀社の無い時代の、当時の田舎の弔いにかかわる必要な一切の

用意をされていたのです。更に我が家屋敷はお世話になった門前部落の

公用に役立ててもらいたいと寄付をされていました。部落では有り難く

公民館を建て、今なお有意義に使われています。勿論フデさんの葬儀は

部落葬として丁重の葬られました。

 これを美談として語るか、何もそこまで我が命の行く末を心煩うことも無いではないかとの意見もあるかも

しれません。しかし、誰でも何れは死ぬときがくることは否定できません。どんな死であるか、その死に様を

まともに非難し悪く言う人はいないにしても、やはり惨めな死、憐れな死より、見事な最期、美しい臨終を

迎えたいと思うのが人情でしょう。死に臨んでは、その人の生涯における人生劇場最期を飾る主役を演じ

なければなら内のですから、安らかでありたい、美的でありたい、願わくは感動的でありたいという死の

美学が語られます。

 昔も今も高僧をといわれる方々の中には、自分の死を一年も

前より予見されていたり、永遠の旅立ちを準備され、弟子たちに

後事を託されたりしています。死は生まれ変わり死に変わる

輪廻転生の流転の中のひとコマの現象に過ぎませんが、

やはり人の死はその人の生涯をしめくくる最大のドラマであり、

クライマックスであります。そのときは厳かに、しかも明るく

美しきものでありたいと願わずにはおれません。

 だが、如何に美しく、見事な臨終を迎えたいと望むのはよいのですが、単に死の場面のみを取り繕い

演じても出来がたいことであり、またこれはあまりにも消極的生き方と思えます。ボケ、認知症や寝たっ

きりになる己を心配するより、むしろ積極的に自らの持てる能力の心を世のため人のために活かしきる

情熱を持ち、常に活き活きとしていきたいものです。このように生に徹し、辛苦悦楽の人生ドラマを

精一杯演じきってこそ、その人の臨終に感動が生まれ、美があり、人々その人の死を心から惜しみ

讃えるのではないでしょうか。



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