こころの紋様 -ミニ説教-


〜理屈はいらないお説教〜

心の叫びをどう聞くか


 わがお説教においてよくいうことは「ないことを嘆くより今あることに感謝せよ」とか「人の幸福をうらやん

だり、うらむより今、恵まれていること、よいことを有りがたく感謝で受け止めなければ幸せになれない」と

いうことです。ただお坊さんというの本当に有り難いもので、頭を丸め法衣をつけているだけであっても、

一般的にはやはり坊さんとして遇していただき、少々抹香臭い話や悟り済ましたような観念的お話を

しても、結構素直に聞いてくださり心の支えとして有り難がられる事がせめてもの救いです。

 以前のことですが更年期障害に悩み、頭痛、胃痛、神経症

などの持病状態に苦しみ、いつもイライラ状態のご婦人が

おられました。病院通いにもかかわらず一向によくなる兆しが

見られず、そんな暗い状態にまわりの人から「先祖の祭り

かたが悪い」「亡霊のせいに違いない」といわれて、いよいよ

心穏かでなくなりました。

 そんな婦人の気も知らぬように、子どもたちは自分勝手に遊びに出かけ、夫は優しい言葉の一つもかけ

てくれず、平気な顔で毎日晩酌をして心地よさそうに高いびきで寝ていまい、自分の病気へのいたわりを

かけてくれません。だんだんとその婦人は、こんな冷たい家族をうとましく思うようになりました。なぜ私

ばっかり苦しまねばならないのか、どうして私だけがこんな不幸な目に遭わねばならないのかと夫を恨み、

子どもたちまでをも恨みがましく思う気持ちになっていました。そんな中での寺へのお悩み相談です。

 愚痴不満の種をまけば愚痴不幸の芽を出して、様々な災いや不幸を招くものです。喜びと感謝の種を

まけば、融和と徳の芽を出して、幸せと安心の花を咲かせることが出来ることでしょう。世の中には何と

お気の毒な、聞くも涙、語るも涙のような不幸せな境遇の人の話を聞くことがあります。しかし、此のご婦人

の話は、確かにお気の毒なことだと同情はしても、本人が思うほど大変な不幸という境遇の方とは思えず、

まことに自分勝手な愚痴不平のような印象でしか受け止められませんでした。

 だからと言ってその当人は最大の不幸感にある以上、不幸な

人なのです。昔の私はその不幸感を否定して、本人自身がまだ

寝付くほどの病気でもないこと、ご主人が元気であること、子ども

たちも元気でいてくれると言うように、今ある幸せを感謝に変える

ようにとのお説教をしたことでしょう。確かに、第三者的に見れば

まだまだそのご婦人は恵まれているように見えても、感じる不幸は

他の誰とも比較できない辛さであり不幸な思いなのです。

 お説教とは正論を述べ手その不幸さを否定することでは悩みはとれません。その悩む本人の辛さ、苦しさ

受け止めよき理解者としての安心感が与えられることがいちばんです。私はよく「確かに健康をそこねられ、

体調が整わずお気の毒には思います。だけど、まだまだ、あなたは幸せのうちではありませんか。」などと

すぐにお説教的に相談者の悩みや苦しみを否定してしまっていたことがありました。確かにその通りかも

しれないし、正論であればわかりましたと相談者は引き下がってしまわれたことでしょう。理屈はわかっても

結局受けとめてもらえなかったという不満を残されて終えていたことでした。

 相談にこられる人は理屈でのお説教を聴くためではなく、我が悩みを聞いてほしい、苦しみを解ってほしい、

災いを祓ってほしい、祈ってほしいと言う心の叫びがありました。その叫びをどう受け止め聞いてやれるかが

大事なことでした。



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