こころの紋様 -ミニ説教-


〜人は生きる義務あり〜

施されても布施の行


 ある新聞の人生相談に「躁うつ病のために定職のもてない夫を持ち、二人の小学生をかかえ、

私自身もあまり健康でなくて、多額の借金に苦しんでいます。頼れる身内もなく毎日くらい思いで、

一家心中の予備軍の気持ちです。このような未来のない家庭の生きる道を示唆して頂きたい」

という婦人の悩みが述べられていました。たしかに社会は不況風が吹き荒れて新聞紙上では

自殺や心中を報じない日はないくらいです。「あぁまたか」と他人事とは思わないまでも、何の

救いの手立ての出来ないままに「かわいそうに」という同情程度の思いしか出来ませんでした。

 いな、むしろ“子どもを道づれに”などという見出しを見ると「何たる馬鹿な親だろう」という

軽蔑的な見方をしていたこともありました。

 しかし、私自身が逆にそのような病気、経済的困苦の

境遇に置かれたとき、心中などを考えず平然として居れる

だろうかと自問しながら、投稿者の心労のほどを察しました。 

 人は決して貧しいことが理由で死にたくなるものではない

と思います。また病苦だけで死を選ぶわけでもないはず

です。貧苦、病苦だけを自殺の理由にしていたら、この世界

は自殺者、心中者であふれてしまうことでしょう。

 自殺や一家心中は人として生きる意義を失い、生きる目的を見失ったときに選ばれる逃避の道の

選択なのかも知れません。しかし、人は神仏より生を受け、この世に何かの人としての役割を果たす

ために命を頂き生存が許されていることです。

 人はよく“生きる権利”を主張いたしますが、私は“生きる義務”こそあれ、自ら主張する“生きる

権利”も“死ぬ権利”もなく大自然の意思、神仏のご意思の中で生かされているのだということを知る

べきかもしれません。この投書のご婦人は、自分ひとりの力で生きていこうと頑張っておられるところ

に無理が生じているように見受けます。現代の世の中生き馬の目を抜くといわれるほどの厳しさが

あり、冷厳さのある反面、優しく温かな人の支えあいのある社会でもあることを知って欲しいものです。

 「私は誰の世話にもなりたくない、自分ひとりで生きるのだ」という自力の

強さも必要かも知れませんが、この考えは往々にして偏狭的になりやすく、

また傲慢になったり、かたくなに自己の殻に閉じこもり協調性のない生き方

になりやすいものです。だから、苦しいときは一人で考え、一人で悩むだけ

でなく、必要なことは自らの心を開き、その悩みを誰かに打ち明けることです。

 新聞紙上での身の上相談も解決への糸口かも知れませんが、より身近に

直接話しを聞いてもらえる人のほうがより解決への近道だと思います。

 地域には善意の人が大勢おられるものです。あなたが心を裸にして悩み

を打ち明けたとき、どんな人だって一緒に考え解決への糸口をさがして

くれることでしょう。お寺の和尚さん、牧師さん、神職さん、またそれぞれの

地域の世話人さんを通して民生委員さんなど相談を聞いてくれる立場の人も

います。国には生活苦にあえぐ人々を救済する制度もあります。心中を

考える勇気があるのなら、その勇気をもって心の悩みを誰かに打ち明け

ご相談になることです。
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 人間社会はお互いに支えあい、助け合って成り立っています。仏教の修行徳目の第一に「布施の行」

が挙げられています。布施とは欲や執われを離れ、他に対し心から思いやり恵みを施す精神です。

 だから、布施の行をする人は布施を受けて下さる人が必要なのです。布施を受ける人は与える人に

対して与える喜び、布施の喜びを施すことになるのです。布施することは執着を離れる修行であり

布施を頂くことはその修行のお手伝いをすることにもなります。施す人も施を受ける人も一つの行為に

おいて布施の仏行となっていくのです。だから、、つまらぬ遠慮をしたり自我を張って人様のご好意を

断るのは仏教の教えに反することにもなりかねません。




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