こころの紋様 -ミニ説教-


「千の風になって」のお墓論議



  昨年の秋の彼岸会法要の後、「岩崎記代子“心のかたり”」というテーマのもとに童謡コンサートを

開きました。歌手・岩崎記代子さんの笑いを誘う巧みなトークと歌で大変盛り上がり、リクエストまで

飛び出しました。そのリクエストのひとつに「千の風にのって」という歌が出されたのです。

 二、三年前の大ヒット曲で多くの人に知られる歌です。そのとき岩崎さんは住職の私に「この歌を歌って

もいいですか」と問われました。それは、その歌の歌詞に「お墓の中で泣かないでください そこには私は

いません 眠ってなんかいません」という文言があるからです。

 一般的にはお墓には故人の遺骨が安置され、先祖や

故人はそこで安らかに眠っているのだという観念がある

からです。お墓に故人は眠っているからこそ、人々は

花を手向け、香をささげて墓参りをしていることでしょう。

だから、そんな観念を打ち壊し、墓参りの風習を否定して

しまうような歌には抵抗を感じるという人も多く、お坊さん

たちの中にも「宗教的情操を失わせてしまうものだ」と

いってこの歌の流行を喜ばない人もいるということでした。しかし、故人なり先祖の御霊は往くべき霊の

世界へ往生し、あるいは輪廻の流れの中にあって再びこの世への転生もありうることです。

 だから、本来お墓に死者の霊魂がいつまでも眠り、石塔なりにいつまでもしがみついているということは、

その死者、故人は輪廻転生の流れにのれず、浮かばれずいるということであり、そうあってはならない

ことなのです。お墓には故人の遺骨を安置しているので、そこで眠っているといえば眠っているという

言い方も出来なくはないが、必ずしも死者の遺骨を安置し祀っているから故人の御霊は墓という一所に

とどまり、あるいは眠っているわけではないのです。

 お墓というのは遺骨の安置場所であり故人のよすがとしての

形であります。さらに遺族、子孫が故人や先祖を敬慕し、御霊の

安寧を願い、思いを込め思いを託すための場所として機能して

いるわけであり、墓に御霊がいる、居ないに関わらず、お墓に

お参りすることの意義はなんら損なうことはありません。

 一般的にも亡くなった人を埋葬し、そこに参るのが当たり前、

そしてお彼岸、お盆、命日等に墓を清め、浄水を備え香、花、

灯火を捧げ、墓に手を合わせ、亡き人を偲び、また先祖を敬い、時には涙を流すのも、愚痴のひとつも

こぼすのも人間らしくていいではありませんか。

 たとえ、そこにあなたはいなくても、御霊はいなくても、自由に大空をかけめぐってる千の風であろうと、

ダイヤモンドのきらめきの雪になっても、やさしい秋の雨になっていようとも、夜に輝く静かな星であろうと、

あなたがあなたであった遺骨がここにある。いまさら涙なんか流れはしないけど、あなたを思い、あなたを

偲ぶよすがとして私は私の思いを伝えたくてお墓に参りますよ。たとえ、あなたがそこにいなくても、留守で

あろうとなかろうと私は私の思いを伝えたくてお墓に参りますよという場所でもあるのです。

 だから、私は住職として、千の風にのっての歌詞に異議はなく歌手の岩崎記代子さんには、どうぞどうぞ

思いっきり皆さんと共に歌ってください」と言ったので承福寺の本堂は「千の風になって」の大合唱になりました。



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