こころの紋様 -ミニ説教-


〜 戒律は大乗の精神で 〜

―衆生済度あってこそ―



 昔の逸話です。ある和尚は若い娘が池に飛び込み心中をはかったという知らせを受けました。

男衆はあいにく皆仕事に出ていないということから、和尚はあわてて飛んで行き、褌(ふんどし)一つに

なって池にもぐり女を引き上げました。ぐったりとなった女を寝かせ、衣帯をとき、腹を押して水を

吐かせ、胸を押して人工呼吸、かなわぬと見るや自らの口を女の口につけての人工呼吸を続け

ました。やがて女は息を吹き返し一命を取り留めました。駆けつけた家族のものはおおよろこびです。

  ところが、その一部始終を見ていたお弟子さんが

[和尚さま、出家者たるものが人助けとはいえ、まっ裸

で女を抱き、その上口づけまでなされるとは、女犯の

罪に当たるのではありませんか?」と質したのです。

[何だ、思えはまだあの娘を抱いているのか。

わしはもうとっくに娘をはなしているのに、お前はなおも

あの娘を心の中に抱き続けておったのか。この妄想

かきの不届きものが・・・・」としかりつけたと言うここです。

 和尚は決して女を抱いたり、口づけをしたのではありません。溺死寸前の一人の人間を助けようとした

のであって、和尚にとっては、そのときは男でも、女でもなく一人の人間を扱ったに過ぎなかったのです。

しかし、かの弟子は溺れた娘を女人と見て、その女に触れることは女犯の罪になると恐れると共に、

また、裏を返せば、却って心の中で女を抱いてしまっていたのでしょう。

 修行や信仰はあまり偏狭すぎ、その事に捉われていては、真の働きができません。仏教の本来の

衆生済度も出来なくなってしまうことをこの逸話が教えてくれています。東南アジアのある仏教国では

今もお坊さんの戒律に女性に触ってはならないと言うことを聞いています。その戒律のために水に

溺れる女性を見ての助けられないというのです。たとえ戒律であるとはいえあまりにも小乗的偏狭さ

というものです。やはり、厳しい戒律の中から抜け出し、世俗の中にあっても、己を持し、律してゆく

大乗仏教こそ真に民衆と共に生きる仏教のように思います。



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