こころの紋様 -ミニ説教-


〜 女は成仏出来ない? 〜

―信仰の中の女性差別―



 盆踊りや夏祭りは実にエネルギーに富、暑気払いや諸精霊を祀ると同時に疫病退散などの厄祓い的

色彩を持っています。祭りも昔と変わり、かつての仏事や神事が今日では観光的となり見せる祭りに

変わって、ずいぶん開放的になりました。しかしなお伝統やしきたりを守る祭りも少なくありません。

国の重要無形文化財である博多山笠もその一つでしょう。七百五十年余の歴史を持つだけあって、

さまざまなしきたりを守り、博多の男の祭りとしての心意気を誇っています。

  数年前まで、その祭り各流れの詰め所や所や舁(火)き山の前に

「不浄の者立ち入るべからず」と言う立て札が昔から習わしとして立て

られていました。ところがある年のこと、山笠見物の一女性がその

立て札に対して「不浄の者と何たることか、女性差別ではないか」

と噛み付いたことがありました。なるほど博多山笠は男衆がいき

がる祭りであり、勇壮で危険を伴うだけにさまざまな縁起を担ぎ、旧習

を重んじてきています。喪葬や傷病を「黒不浄」として忌み、特に女性

(生理)を赤不浄として忌み嫌い、祭りの期間中は夫婦の性生活さえ慎んだと聞きます。

また神のより代である神聖な舁き山や詰め所から、昔は厳格に女性を遠ざけて来た歴史があり、その

名残が問題の立て札でした。京都祇園祭りの山鉾も女人禁制だったと言い、古代より多くの宗教的

意味合いの祭りや仏事、神事には多分に神聖さを守ろうとするしきたりや掟の中に、あたかも女性を

差別するかのように女性を不浄視することが少なくありませんでした。女人禁制の祭りがそれであり、

女人禁制の聖域も作られていました。修験の大峰山、明治まで高野山も比叡山も女人禁制の山だった

と言います。福岡県宗像市の沖の島は島全体をご神体として祀られ、今なお女人禁制の島としてかた

くなに女性の立ち入りを拒んでいることで知られます。

 浄とか不浄という観点は宗教的意味合いの強いものであり、

人間的理解や、常識、また科学では割り切れない面があり

ますから、それを直ぐそのまま現実社会の男女平等思想で

女性差別だと否定してしまうのも問題かもしれません。

神道では特に死を忌み、それにまつわる傷病を好まず、血は

死との結びつきから不浄として神の前より遠ざけ、ケガレとして

嫌ってきたようです。

 女性に伴う整理もまたしかりで「赤不浄」とされたようです。だからと言って、それは女性そのものを

不浄視するものではなかったはずです。ただ、そのしきたりのみが独り歩きし、女性そのものさえも

不浄視する伝統が形つくられ、差別扱いする傾向も見られた時代もあったようです。

 しかし、祭りは祭りを主催する人々が自らの安全や無病息災を祈願して行われるものであり、神聖さは

その宗教や信仰に基づくものでありますが、祭りの伝統の中に作り上げられた誤った因習や、不当な

差別観は宗教者の見識のもとに改めるべきでしょう。仏教における女性差別も昔より論じられてきて

います。お釈迦様は人間の平等を説かれ、差別などとかれるはずはありません。

 しかし、ものの本によれば経典の中には「三千世界の男の

煩悩をすべて集めたものが一人の女の業障に等しい」とか

「女性は大魔王であり、一切の人を食い尽くし、この世に

おいてまつわりつき、未来の成仏の妨げとなる」とか「男子が

一度女性をみれば、永久に地獄に落ちる。いわんや一度

女性を犯せば、必ず無間地獄に落ちる」などという女性蔑視も

はなはだしい箇所があるということでした。これが仏典だとは

信じがたいことです。

 お経と言えばすべてがお釈迦様の説かれたものだと思いがちですが、真の仏説出なく、中には後世の

人たちによってつくられたものであり、仏説云々と言うお経さえ如何わしいものであったり、また誤り伝え

られたり誤訳されたものも少なくありません。しかし、先の文章は単に女性を蔑視し差別をする意図では

なく比丘(男子出家者)に対する戒めとして説かれたものであり、修行者が女色に交わっての日常生活

では修行にならないことから、これを遠ざけ排除するための方便である解されます。



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