こころの紋様 -ミニ説教-


〜 家庭教育は親の気合である 〜

―親と子の間に教育論はない―



 子は親の鏡とか言い、姿かたちばかりでなく、言行動作まで実によく親に似てくるものである。

子は親のすることのいい事も悪いこともよく見、よくまねるものである。プロ野球ソフトバンクホークスの

王貞治監督は選手時代にはホームラン王として不滅の大記録をうちたてた人であり、当時所属の球団で

ある読売巨人軍を大嫌いと言うアンチ巨人の人でも巨人軍の敗戦を願いながら、王選手のホームラン

だけを期待し祝福する人が少なくなかった。まさに英雄でありながら英雄ぶらない謙虚な王貞治という

人のお人柄だったのかもしれない。
 ずいぶん昔の話であるが、その王選手のお母さんはよく、

マスコミの取材で 『どのような育て方をされましたか?』 と

尋ねられたといい、その質問がなんともつらかったと言うこと

でした。と言うのは 『子育てとか、教育なんていうものはあまり

しなかった。親はものも言わず夢中で商売のラーメン作りに

打ち込み、子供はその傍らで知らない間に育っていった』 と

いうのだ。こんな話を聞いたときやはり親と子の間には教育

論なんて要らないのだと思った。 

 とにかく親が何かに向かって一途に生きぬいているとき、その親の一生懸命な姿、緊張した空気のあおり

を受けて、子供も何時しか心を引き締めて生きるものではないだろうか。親が安定し充実しているとき、その

親の落ち着きのあおりを受けて、子供も何時しか心和むに違いない。

 つまり子育てというものは親から子供への気合なのだと言う教育専門かもいる。まさに、当時の幼年王貞治

は親の気合によって育てられたのだと思えてならない。昔の教育などと言うものはたいてい、そういうものでは

なかったのではないだろうか。そして子供は自ら持てる才能を自ら見つけ自ら伸ばし行くものなのだ。

親はその肥やしの役目に過ぎないのではなかろうか。

 子供の幸せのため、将来のためにと言う親の思いだけで、やれ塾だ、

やれお稽古だと親が押し付ける事がいいことだろうか。子供にはそれ

ぞれ能力も違うし、好みも希望も違うものである。それは誤った幸福論

であり幸福感からの家庭教育論である。

 子供の幸せになることだと言い、子供のためにやっているように見えても、実は大人が子供に任せておい

たら失敗するのではないかと言う、自分自身の不安をコントロールできない結果として、身手出し、口出し

しているに過ぎないことが多すぎる。過保護では子供の自立自尊心は育たない。自尊心を豊かに育てて

いくためには何度もの試行錯誤の体験が必要なのだ。転ばぬ先の杖ばかりでは、反射神経も育たず、

自ら転びそうな時に手も出せずもろに顔を打ち大怪我をしてしまうことになる。親の子に対する過剰の

期待、親の夢の実現のための道具にされたのでは子供が可哀そうだ。家庭内暴力など子どもが関わる

事件の原因のいくつかはこの辺の精神的抑圧の積み重ねにあるのかもしれない。



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