こころの紋様 -ミニ説教-


〜 布施の精神は三輪清浄で 〜

―下心あれば功徳を失す―



  鎌倉に円覚寺と云う臨済宗の大本山の寺があります。明治の時代のこと、そこに誠拙和尚と云う近世の

傑僧がいました。時に円覚寺の山門の再建に当たって、ある一人の大金持ちの商人が、現在の金額で

言えば数千万円かの高額の寄付をしたということです。「どうぞ、このお金を山門の建立のたしにお役立て

ください・・・」と誠拙和尚に差し出したのです。すると和尚はただ、「ああ、そうか」と云って受け取っただけで

何の御礼の言葉もありませんでした。この金持ちは心穏やかではありません。折角、大金を出したのだから、

せめて和尚からの一言の御礼言葉を聞きたかったのです。

 たまりかねた金持ちはついに「和尚さま、いくらおかねが

あるとはいえ、○千万円は大金でございます。

その大金をご寄付したのですから、“ありがとう”の一言でも

おっしゃってもよいではございません」と不平を言ってしまった

のです。すると誠拙和尚「何、私に礼を言えというのか?

お前さんが功徳を積むのになぜ私が礼を言わねばならん

のじゃ」と。

和尚はこの金持ちが誇らしげに多額の寄付をしようとする態度を見抜き、その我見を取り去ろうとされたの

です。このひとことにかの金持ちの商人は深く感じ入って、ますます誠拙和尚を尊敬したということです。

ちなみに現在ある円覚寺山門がそれなのです。例え如何なる善事善行も、その報酬や見返りの名誉や

尊崇を受けようという下心があれば本当の功徳、陰徳にならないし、清浄な誠の布施にはならないことを

和尚は教えたのです。ところが、私もですが、寄付を受ける側としては誠拙和尚のような毅然とした態度は

なかなか取れないのが正直な気持ではないでしょうか。神社仏閣の参道や境内、またお堂内には寄付者の

名を刻み込んだ石柱や寄付者芳名額が掲げられています。しかも、高額寄付者ほど大きな字で書かれて

いるのを見ることが多々あり、これはむしろ一般的慣例になっています。

 たしかに、寄付を集める側としては、寄付をしてくださった方

への感謝と金額の表示によって評価し、名誉心や売名行為の

奨励でもあります。また信者、檀徒間の競争心をあおり寄付

目標額を目指すことは有効なやりかたであるといえます。

だが、はたしてこの方法が三輪清浄を説く仏教精神なのだろう

かとの疑問が残ります。即ち、三輪清浄とは布施をする人と、

布施を受ける人と、布施する物の三者間に何の要求や執われ

や束縛しあう関係のない、純粋な恵みあいのことを云います。

 かの円覚寺における金持ちの商人の寄付行為は売名であったか、栄誉心であったかはしりませんが、

三輪清浄の精神とは云い難いものであったことでしょう。そのことを誠拙和尚は教えられたのです。

因みの当寺も堂宇の改修や建築等で幾度かの寄付をお願いしたものです。しかし、信者方々の温かい

ご喜捨をいただき目的の事業は完成できたのですが、結局私も三輪清浄の精神を説いて寄進の掲示額板は

張り出さずにきています。寄進額を張り出せばもっと多額のご寄進を頂けるのにと、寺の維持担当の総代方の

意見もありましたが、沢山のお金を集めることが目的ではなく、改修や修復や建設する当初の目的が達成

されることで十分であると感謝するばかりでした。



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