こころの紋様 -ミニ説教-


〜 いのちの教育 〜

―人は死んだらどうなるか?―



 私は最近地元の市の教育委員会との関わりが出来、市内の小・中学校へ出かける機会が多くなりました。

時々その学校の雰囲気を知るために早めに学校に入り生徒たちに声をかけたり、挨拶を交わすことがあり

ます。ある小学校の午後の視察の時、一人の女の子が「おしょうさんですか?」と聞く。私はそのとき法衣で

なくスーツ姿であったが剃りあげたテカテカの頭と雰囲気から坊さんに違いないと思ったのでしょう。

「そうだよ」と応えると「人は死んでも生まれ変わるんですか?」と聞き、また別の子が「生まれかわるっ

ちゃろー?」と聞いてきました。私は「どうして?」と聞き返し、そのわけを知ろうとしたとき、授業時間が

迫って子供たちは校舎へ走り去ってしまい、その質問のわけを聞けませんでした。

 子供たちへのある調査では「人は死んだらどうなるか」と云う

設問に対し、「すぐ生き返ると思う」と云う答えがなんと85パー

セントもあったという信じられない数値を聞いています。

それはどういう根拠なのだろうか。「殺してもすぐ生き返る」と

云う回答に私はいささか疑問を持ちながらも、現代では死と

云う切実な場面、切迫する事態に接する機会を失い、死を

学んだり、死とはどういうことなのかということを教える教育が

なされていないということがあります。

というのは、TV画面やゲームの中での殺し合いはあっても、真の死の恐怖はなく、また殺してもすぐ生き返る

という場面もあって、TVやゲームでの認識と現実が交錯してしまっているのかもしれないとも思えたからです。

人は死んだらもう絶対に二度と生き返らないのだ、命を奪うことは取り返しがつかないことなんだという事を

どう教えるかが、教育として具体的に求められているような気がします。

 なぜいのちが大切なのか。なぜ人を殺してはいけないのか。そんなことは常識であり当たり前のことなの

ですが、そのなぜなのかの「なぜ」と云うことが解決されない限り、命の問題の解決にはならないように思え

ます。命の理解は生き死にの問題であり、その実感を伴うことによって知り得る人生の根本命題なのかもしれ

ません。死ということがあるから命の問題が出て来るのであり、死と云うことが無ければ、命の尊さなんていう

ことも必要無いことなのです。

  仏教では命の尊さをどう捉えられているのでしょう。お釈迦様は大いなる

お悟りを開かれ、真理に目覚められたとき「山川草木、森羅万象悉く仏の命が

宿り、仏の智慧徳相を具有している」と申されたように、人間はおろか、山川

草木、一切のものが神仏の世界、また大自然の大いなるものの命を頂き生か

されているのだと教えられました。自分がこの世に生を受け、今ここに生きて

いるということは、好む、好まないにかかわらず輪廻転生の繰り返しの中での

重々無尽の因縁の結び合いによるものなのです。

自分が生きていることは自分の力で生きているわけではない、無限の多くの

人々の中で生かされているのです。

 動物にしろ植物にしろ基本的には、生きるということ、生に愛惜を持つことは本能なのだと思います。

自らの命を守ろうとし必死に生きようとし、また自らの種を守るために動物は動物なりに、植物は植物なりの

工夫をし、あらゆる智慧を働かせて、進化し変化を遂げて生き延びようとしてきました。

弱肉強食といわれる中にも自然のバランスが働き種の命をまもり、伝えさらに新しい種の命を生み出して

きて今日に至っています。動物にしろ、植物にしろ、ぞれぞれが自分が一番かわいいのです。

人間だって動物の本能として生への愛惜を持ち、自分が一番かわいいのである。その動物的本能を失った

ものが、自らの死を選び、命を粗末にするのではないでしょうか。


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