こころの紋様 -ミニ説教-


〜 命が大切だというより 〜

あなたが大切だと言われたい―



 お釈迦様は「誰も己より愛しいものを見つけることは出来ないものだ。他の人にあっても自分はこの上なく

愛しいものだ。だから、自分の愛しさを知るものは他を害してはならない」と諭されたと言われています。

ところが、人間だけがなぜか命を粗末にし、安易に他人の命を奪い、自らの命をも絶とうとします。

 現代の傑僧と云われた山田無文老師は、若いとき肺炎を

患い生死さえ危ぶまれるほどであったそうです。老師は私の

大学時代の学長で、よく禅学の講義や講演をされていました。

その折に耳にしたことを、印象深く記憶しています。

「肺炎にやむ老師はある日、病床から縁側に出て、梅雨の晴れ

間の庭を眺めていたら、そよそよと風が頬をなでてくれたという。

風に吹かれたのは何年ぶりか、風とは何か、風は空気が動く

からだ、そうだ、空気と云うものがあったのだと気づく。

 二十年も空気に育てられながら、養われながら、空気のあること気づかなかった。自分は空気とも思わない

のに、空気のほうは寝てもさめても休むことなく私を抱きしめていてくれたんだと気づいたとき、泣けて、泣けて

仕方なかった。俺は一人じゃない、孤独じゃないぞ、俺の後ろには生きよ、生きよと俺を育ててくれる大きな

力があるんだ、俺は治るぞと思った」そうです。そのとき “大いなるものに抱かれてあることを けさ吹く風の

涼しさに知る”とうたわれました。老師はそれ以来、病はどんどんと回復し、八十八歳まで現代の傑僧として

活躍されたのです。

  如何にわれわれが「命は神仏によって頂いたもの、

生かされたもの」と云い、「受けがたき人身、今すでに受く」

とか「この世に生まれ来ることは、爪の上端における土の

ような」などお経の言葉を持って、命の大切さをと諭したと

しても、この世での自らの存在価値や生きる意義が分ら

なければ、生きていることさえ辛いことなのです。

自己の生に気づき、生きている実感を体で知り、学ぶことが

いかに肝心なことかを老師は教えられました。

 一見普通にみえる家庭にある子供が死の選択をすることをしばしば聞かされます。

家庭にあっても学校にあっても自分の居場所、こころの居場所が無いことほどつらいものはないはずです。

そんな小さな心を支える手立てがあるのだろうか。「命は大切だ。命を大切に。そんなこと何千何万回いわ

れるより、『あなたが大切だ』誰かがそういってくれたらそれだけで生きていける」と云うのは公共広告

機構の「命の大切さ」のキャンペーンのキャッチコピーです。まさに、自らの存在の意義を認識させうる

やさしい家庭、社会のやさしい心が大切なのです。


最後までお読み頂いてありがとう御座います。

 ぜひご感想をお寄せ下さい。

E-MAIL ns@jyofukuji.com

 戻り