こころの紋様 -ミニ説教-


〜 心の中に参道を 〜

―心を調(ととの)え神仏に心を映す―



 ある寺の法要に参列したときの話です。法要には大勢の檀信徒の参列の方々がいて、寺の駐車場は車が

いっぱいです。田舎の寺ほど皆さんは車でお参りに来られることが多く、どの寺も駐車場の確保は大変です。

その日たまたま私が行き合わせたとき、一人の参詣者が駐車場の案内が悪いといって、寺の受付に苦情を

言っておられました。その原因が何であるかは定かではありません。

 しかし、せっかくのお参りのときに心を騒がせて信心の場を台無しにしてしまってはもったいない事だと

思いましたので、理由はともあれ「せっかくの報恩法要で信心の場だから、まあまあ、怒りの心は心におさめ

ましょうよ」といさめて、その場を治めることができました。

 現代の車社会では寺参りも来るまで乗りつけ目的を果たす

のが当たり前のこととなっています。便利になったことは有難い

ことですが、その有難さが当たり前になってしまい、ちょっとした

我慢や不便さを強いられると不満に思ったり、不平をもらして

しまいがちです。一昔前には電車やバスを乗り継ぎ、さらに

停車場から何分も歩いてようやく寺にたどり着くことは珍しい

ことではありませんでした。

その道々に寺への思いを馳せ信心を固め、ようやく仏前に向かい手を合わせることが出来た安堵と喜び

だけでも感謝の念は芽生えたことでしょう。

 家を出て、寺に向かう道々がすでに寺につながる参道なんだと昔の人たちは言っておられました。

ましてや社寺には、昔「下馬」とか「下乗」と云う立て札があり、境内にはたとえ高位、高官さえ車馬の乗り

入れは禁じられていました。それは神仏にお参りする姿勢として、ただ手を合わせる拝むだけと云うことで

なく、大事なことは神仏の御前に至るその過程も大事なのです。

  昨年は小泉首相が突然、靖国神社へ参拝して物議をかもし

ましたが、その是非はともかく、一国の首相であっても参詣の

心得としては神殿まで車の乗りつけは出来ません。首相ならず

とも境内の参道を緊張した中を粛々として歩む、その歩みの中に

すでに信心のお参りは始まっているのです。自らの心を調え、

神仏に心を照らし、静かに誓い手を合わストころに信心は深め

られることでしょう。

 現代はそんなゆとりを失いがちです。しかし、日ごろ忙しく過ごす現代だからこそ、下馬、下乗の意味を

噛みしめ、たとえわずかなひと時であっても、娑婆の時間の流れを忘れ、お参りするときはお参りすること

になりきって、心を神仏に向けていただきたいものです。むしろ忙しいときだからこそ、ちょっと止めてみる

時間があってもよいのではないでしょうか。せめてお参りするときにはそんな心を保ちたいものです。


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