こころの紋様 -ミニ説教-


〜 祈りは誓願をもってこそ 〜

―祈らずとも神仏は護り給う―



 寺に参り、祈るときどんな祈りをしたらいいのでしょうかという質問を受けることがあります。

仏教の教義の中に、いわゆる因縁機果の法則があります。何か一つの結果に到るには必ず原因たる因が

あり、その因を結果に結びつける縁があって、その縁の熟する機会の機にめぐり合ってはじめて結果に到る

ものです。それはまた、過去、現在、未来の三世にわたるものとされています。

例えば、今認知症いわゆるボケ症状に不安と関心を抱くお年よりは少なくありません。

私もその一人なのですが、そのボケの症状はいきなりボケとして現れ来るわけでは

なく、日ごろからの不摂生、食生活の過ち、ストレスの過剰やお薬の副作用等が重なり

が原因し、次第に脳細胞が衰え破壊されて来ての結果でありましょう。

だからこんな時の祈りにおいて、ただ「病気を治してください」と願い祈ることだけでなく、

自らの生活をふり返り反省と懺悔の中から自分の行き方を正し、精進を誓う中で、なぜこうなったのか、どう

すれば治せるのかという智慧をいただくことこそ仏教信仰者としての祈りなのです。これを誓願といいます。

仏教徒の祈りは単におねだりやお願いでなく、誓願の行であり自らの向上の発願です。私はこのように努力し

行います。そしてこのようにして来ました。というように、誓いと反省と懺悔の中に自己をみ仏の前に開示し、

さらにお守り頂いて来た事への感謝の祈りこそが大事なことなのです。

 お蔭様で今日も無事でという感謝の祈り、高められた祈りでありたいものです。

懺悔の祈りから誓いの祈りへ、さらに感謝の祈りへ、そしてその感謝はさらに

広く他の多くの人々の幸せを願う祈り、平和の祈りへと高めて生きたいものです。

自らの欲望のみの祈りをやめて人々の幸せを祈ることが出来る人には、もう求め

なくても、自分のことを祈らなくても神仏は惜しみなく加護し、ご慈悲を垂れ給う

ことでしょう。

これが世界宗教としての仏教徒としてのあるべき祈りの姿ではないでしょうか。

半ボケになり、すっかりわが事の祈りも忘れてしまいつつある老僧の愚痴かもしれなません。


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