こころの紋様 -ミニ説教-


〜 おねだりに深まる迷い 〜

―神頼みの是否―



 真夏の全国高校野球大会はある種の夏の風物詩です。今年もまた激しいし地区予選が始まります。

野球ばかりかサッカーなどでも、地区代表となれば地元の盛り上がりと勝利への期待は高まります。

よく出場校の監督以下選手がそろって地元の神社などへ必勝祈願なり安全祈願へ出かけたことが新聞

などで報道されます。心情としてはこの必勝祈願の意気込みと決意を表わす気持ちも分るのですが、

祈られる側の神様はどうお応え下さることだろうとかと思ってしまいます。それぞれの地区の代表が

それぞれのゆかりの神社なり、信仰対象の神へ祈り捧げあい、祈願をすれば、それにお応え下さる

神様同士の力比べ、神さまに戦いをお願いしているようなものです。勝負事、ましてや正々堂々と競い

合うスポーツに神の力を頼むなどは、如何なものかと思わないでもありません。

 今、当たり前のようになっている受験の合格祈願も

同様です。勉強をろくにせず、実力も無いものがいくら

お賽銭をはずみ、祈祷料を弾んでも、神仏は公平です。

「是非合格をさせて下さい」と祈っても、やはり努力し、

それなりの学力、実力を身につけた人を合格させる

よう計らうのが神仏の公平な配慮と云うものです。

そんなこと分ってるよ。

 ただの気休めなんですと言われれば何をかいわんやです。「人事を尽くして天命を待つ」と云うように、

必勝祈願であれ、合格祈願であれ、ただ「頼みます。お願いします。お助け下さい。」と云う祈りでなく

「自分たちはこのように練習をしてきた、努力してきた、試合に臨んで一所懸命戦い頑張ります。実力を

出し切ります。お守りください」と云う誓いのもとに詣でるべきでしょう。

 一般的日本人の祈りを見るとき、祈り即お願いと云うパターンが

多いようです。競馬の大穴、宝くじが当たりますようにと云う願いは

論外としても、切実な願いとしての病気治しや人間関係のもつれ、

健康祈願、ボケ除けなどさまざまです。いずれも恵み給え、かなえ

給えのおねだりの祈りがすべてのように思えてなりません。

これはまさにご利益(ごりやく)信仰であり、おねだり信仰と云うもの

です。仏教では、こういうおねだり信仰は本来無いことなのです。

お願いするだけの宗教ではないのです。お願いすることだけの祈り

であれば、それは自分の欲望の充足の祈りであり、欲望をますます

増幅させ、深めることになりかねません。

 己の分を知り、足ることを知ることによって安心は生まれるものを、限りない欲望を追い求めれば

ますますよく深くなり、さらに失うことを恐れ、心の安らぎを失ってしまうでしょう。欲望に限りはありません。

欲望を離れて心の解放、解脱を目指すところに仏の教えがあり、安心立命の道があるのです。



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