こころの紋様 -ミニ説教-
〜 無戒律時代の戒律 〜
―禁煙戒の提唱―
「他のお寺では本堂に灰皿が出してあり、喫煙が自由なのに承福寺ではどうして厳しく禁煙にされているの ですか?」「それは仏教の戒律だからですよ。禁煙戒と云います・・・」「えっ、禁煙戒ですか?そんな戒律 なんてあるんですか?」もちろん、仏教に造詣深い方なら禁煙戒なんてあるわけないと思われることでしょう。 そうです。お釈迦様の時代にはまだタバコと云うものがなかったのですから、禁煙戒なんてあろうはずも ありません。しかし、禁煙戒を云々する前になぜ戒律が出来たかを考えてみたいと思います。 現代ほど戒律が忘れられ無視されている時代はありません。まさに無戒律の時代と申せましょう。 |
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しかし、ここでまた、いまさら二千五百何十年も昔の 原始インド社会で行われていた二百何十戒かの戒律を、 わざわざ経典のほこりを払って現代の人たちに押し付け ようとは思いません。現代には国に法律あり、道徳あり、 秩序があります。さらに個人には良識があってみれば ことさら戒律を云々することは無用のことかも知れません。 |
私たちは四六時中、人間の約束事の中に生きています。倫理であれ。道徳であれ、人間が人間として戒め、 そして守っていくべき決まりがあります。外に一歩出れば交通規則があり、人に対すればエチケットがあります。 これは皆人間社会を円滑に、そして和合ならしめるための取り決めであり、いうなれば一般社会の戒律であり ます。しかし仏教の戒律は「何々をしてはいけません」と云う単なる規則が目的でなく、社会のあらゆる道徳的 行為を基礎としての和合を深めると共に、戒律による清らかな生活をすることによって身(からだ)と口(ことば) と意(こころ)を清浄にし、仏教の目的である禅定を得、悟りの智慧を開いていくための手段であるわけです。 すなわち、身と心を清らかに保つことは修行の基本であり悟りにいたる必須要件であり、六根清浄を唱える ごとく信仰者にとっても大事な要件なのです。だから、逆に身体と心を汚すことは破戒行為であるわけです。 |
そのことから言えば、身と心をけがす最たるものが喫煙であると いえるのです。タバコが身体の有害なることは医学的にも証明され、 今や一般的常識でありましょう。実は私も昔かなりの愛煙家で、 一日40〜50本を吸い指先は黄色くなり歯の裏側はヤニで真っ黒く なって、まさにニコチン中毒状態で、手先が振るえているのがわかり ました。やめようと思い数時間タバコをがまんしていようものなら |
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気分はイライラして怒りっぽくなり、人に当り散らしたりして自制心がなくなっていくのがわかりました。 如何にタバコが害毒であるか申し上げることはありません。これらのことを考えるなら、お釈迦がご在世なら 間違いなく、禁煙戒を設けられるであろうことは容易に分ることであります。だから、仏教の信仰の寺院で ある承福寺は禁煙をお願いしているのです。 |