こころの紋様 -ミニ説教-


〜 物を見るとき人を見るとき 〜

―先入観、感情には誤作用あり―




 知人のある寺の話です。20年か30年まえのことでしょうか。一人のみすぼらしい青年が父親の急逝

にて、葬式をしてほしいといって訪ねてきたそうです。実家は鹿児島とかで遠く、本家は絶えて菩提寺も

なく身寄りとてなく、近くの寺に依頼にいったが、忙しいといって断られてしまったとか。そのとき応対に

出た隠居和尚は、住職の若い和尚に「いやだったらお断りしておこうか?」と云ったほどみすぼらしい

様子だったらしいのです。そのとき住職は「いやいや、いくら身なりが悪いといっても困りはてて、この寺に

来られたのだろうから、お引き受けしましょう」と快く葬儀して差し上げたそうです。

 青年は母も失い病弱で働けなくなった父親をアルバイトで扶養していた

らしく、ぎりぎり以下の生活状態だったとのことでした。差し出されるいわ

ゆるお布施など、もう頂ける状態でなく「それは葬儀の諸費用に役だてて

下さい、ちゃんとゆとりが出来たときに、改めてお布施してください」といって

お返しし、その後の一切のまつりごともしてあげたそうです。

それから、30年その青年は苦学しながら働き、下積みを続けそして独立

企業を立ち上げ今では、誰もが知るほどの大企業の社長となり、

地域への貢献するほか、恩義に報いるため、お世話になったお寺の総代として寺の発展に大きく貢献

されているということでした。「あの時、断っていたら今日のこの寺の発展はなかった」というその住職から

お聞きしたもので、まさに情けは人のためならずの諺を地で行く話しとして聞いたものでした。

もちろん和尚さんは、何の恩ぎせがましいことは言ったことはなく、仏教者としての当然やるべき心遣いで

なされたことなのでしょう。そのとき見かけの貧乏とか、金持ちとかの差別や偏見の態度でその青年に

対していたら、その青年は恩義など感じなかったかも知れません。

 私たち人間が物を見るとき眼を開いて見ようとします。しかし、実際

には物のほうから送られてくる光を私たちが受け取って、それが何で

あるかを認識し判断しているのだそうです。ただし、それは物質的な

ものを見るときの場合であって、人を見るときはまったく違った見方を

しているのではないでしょうか。

 人が人を見るときは見る相手に対してこちらから何らかの感情的な心を働かせて見てしまい、その跳ね

返ってくる何かをキャッチして、相手がどんな人かを判断してしまっていないでしょうか。好きな人やお友達、

また見ためのいい人に対してはやさしく、温かい好意的見方をするので見る相手はいい人に見えます。

逆に見た目の悪さや相手に対する差別の心を持って相手を見れば見る相手は嫌なやつになったり、

憎たらしく嫌いな人に見えてしまいます。ちょっと自分の見方を変えて相手を見てみたら、今まで嫌なやつ、

腹立たしく思っていた相手も、実はみんな良い人かもしれません。


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