こころの紋様 -ミニ説教-

〜 老を嘆くは執着なり 〜

―老熟、熟変の美しき老いをめざす―



 長寿社会化と共に老人福祉、老人介護などさまざまな問題が浮き彫りになってきています。最近では老々

介護なる言葉をよく聞かされます。少子化、少家族化から高齢社会に進んだ今、老人の介護する人がこれ

また老齢者であるということなのです。そんな老齢世代にある私ですから、同世代が集まるといつしか話題は

老人医療や介護や老人年金のはなしになってしまいがちです。わが親の介護には誰もが当然と思い、心の

負担には感じないとはいえ、自らの肉体的衰えを感じ、介護の体力的限界を痛感させられて、やがて来る

かもしれない介護してもらう側になる自らの老いの将来を考えてのため息も聞かされます。

 ある50代半ばのご夫人が、買い物途中で転んで捻挫を

して歩けなくなったそうです。お店の人や回りの人たちは

親切にかけよって「オバァちゃん大丈夫ですか?」と気遣い

介護してくれたり、救急車を呼んで親切に対応してくれたは

有難く、大変うれしかったそうだが、その反面思いもよらぬ

「オバァちゃん!」と呼ばれたことのショックは足の捻挫の

痛さより堪え難く、気も動転しそうなほどのものだったという

笑うに笑えない実話をきかされました。

 自分は今までまだ若いつもりでいたし、元気がとりえというくらいの自負があり、孫以外からは「オバァ

ちゃん!なんて云われた事もなかったし、言わせなかった」というのです。そんな元気自慢のご婦人だった

だけに、その気持ちはわからぬわけではありません。

50半ばがおばぁさんになるかどうかは知らないが、しかし、人はみな老いゆきて、生を全うし、やがて死なな

ければならないという事実は何ん人も避け得ないことであり、自然の理への順応なのです。ばぁチャン、

じぃちゃんの呼称を嫌う彼のご婦人には「老」に対する偏見の強さが多分にあるのかもしれません。

だが、このご婦人が嫌った「老」ということは醜く忌まわしく、厭うべきことでなく、むしろ誇るべきことだと

いうのが、わたしも持論であり、仏教の精神であるのです。

 人が人生を全うする上に、肉体的衰えは避け得ないことです。

しかし、その肉体の衰えは精神の衰えでは決してないはず

です。私たち人間は他の動物とおなじく肉体的衰えはあっても、

熟変、熟老と言う精神的成長をつづけ、円熟した豊かな人間

性を誇れる動物なのです。かなう事の無い「永遠の若さ」に執着し

「老いる」ことを嫌い悩むより、神仏の御手の中に生かされて生き、

御仏の導きの中に老練、老巧、老熟、円熟の熟変のすばらしい人生があること大事にしたいものです。

私は最近とみに自らの肉体的衰えを自覚し、老人の域に入ってきていることを、正常な自らの成長過程

であると自負し、老境を楽しむ老人としての誇りがありすぎるのか、年寄り願望だの、年寄り星人として

まともに聞いてもらえない自らの未熟さを思い知らされているところです。


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