こころの紋様 -ミニ説教-
〜 人生の航路において 〜
―迷う者は道を問わずなり―
近頃また座禅への関心が高まってきたのか、たまたまなのか、去年あたりから民放TV番組での座禅体験 やNHKのTV中継また新聞社から当寺の座禅会の模様の取材がありました。 そのお陰で座禅会への問い合わせが多くなりました。その方々の多くが福岡市内や北九州市などの都市部の 人で、座禅会が毎週木曜日の夜の7時からという時間帯と場所が宗像市のはずれの上八(こうじょう)という辺鄙 な田舎なので実際の参加者は少ないのです。しかし中にはわざわざ遠路にもかかわらず、車を飛ばして訪ねて くる方もいて感心させられます。 |
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ところがその中には、いきなり当寺を目指 してやってきて、道がわからず迷い迷って 結局間に合わず引き返したという方もいて、 お気の毒でもあり、またあきれもいたし ました。そのとき「迷う者は道を問わず」と いう言葉を思い出したものです。 |
地理不案内の者が、初めての家を訪ねるのに、誰にも聞かず電話での問い合わせもせずにただぐるぐる 探し回るということは、少々あきれはててしまいます。ちょっと人に尋ねたり、電話で問えばすぐにわかる ことなのです。でも、これは人ごとでなく、私も結構同じ経験をし、無駄骨を折ってきたようでもありあまり 笑えたものではありません。「迷う者は道を問わず」という、この道とは、必ずしも道路だけのことでなく、 人の道、人生の道、仏の教えの道でもあります。人は生きる上において誰も、必ず通らねばならない道が あるはずです。自らの足で、自己の責任においてしっかりと歩むことが原則です。 |
しかし、人ははじめから完璧な人はいません。物事の判断に苦しみ、 また煩悩苦海に迷い、苦悩しながら歩いていることでしょう。 仏教では正しい師に巡り合い、同信同行を得ることが大事である ことが教えられています。独りよがりの悟りは独善的で間違った悟り が多いからです。だから、人は常に道を問わねばならないのでしょう。 |
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師にも問わず同信同行にも誰にも問うことをしない人間は自我心が強く独りよがりの独断と偏見によって 迷いを深め身を滅ぼすことにもなりかねません。 私は以前、トライアスロン大会の出場を続けていましたとき、そのトレーニングのつもりで寺の前に見える 8キロ先の大島に向けて遠泳をしたことがあります。もちろん伴走船についてもらってのことです。 島に立つ灯台を目指してのことですから、顔はまっすぐに灯台に向けてまっしぐらに泳いでいました。 ところが、船上から「潮に流されている、もっと左方向へ向けて泳げ」という指示が出されました。 灯台を目指していくのに灯台とは別な斜め方向へ泳ぎ進むことによって始めて目標地点の灯台地点へ泳ぎ 着けました。そのとき私は大海原、道のない道を行くとき自分の方向感覚や自分の判断などまったく役に立た ないことを知らされたものです。 |
人生の道も航路と同じです。自分を客観的に見てくれる人が いて適切に指示しサポートをしてくれる人が必要なんだという ことを感じたものです。自分は正しい、間違いないと思う判断が 必ずしも正しいとは限りません。だから、先人はそういう独り よがりの判断でなく客観的に見守り支えてくれる師があり、 同信同行を持つことが大事であると教えられているのでしょう。 自らの心を開き、素直に道を問うことが大切なのです。 |
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自分は顔をまっすぐ灯台に向けて進んでいるつもりでも、体全体はどんどん潮の流れに流されて、知らず 知らずに自らの進む航路をはずれてしまうことがあることを忘れてはならないことを教えられました。 |