こころの紋様 -ミニ説教-

〜 桧原(ひばる)桜物語 〜

―花は春 花みごろ 花ごころ―



 西行法師はとある寺の幽玄なる風致の中で一本の老桜に魅せられる。老いて傷ましくも春来れば凛として

咲きてあでやかなる桜花に、わが心境を重ねた。“願わくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月のころ”と

詠むほどに西行は桜をこよなく愛した。だが、桜を愛するものは西行ばかりではない。それは日本人の誰もが

持つ大和心というものかもしれない。福岡の桧原(ひばる)桜の花守り物語もこの大和心から生まれた。

福岡市南区の長住と桧原の間の二つの池に挟まれた狭い道の両側に十本ほどの桜並木があった。

その並木が道路拡張工事で伐採が始まり一本が切られたことにこの物語は生まれる。

 この桜のつぼみはすでにふくらんで開花も間近かであった。

これから次々に切られるのを思うと痛々しくさえある。その残る桜の一枝

に、 “花守り 進藤市長殿” “花あわれ せめてはあと二旬 ついの

開花をゆるし給え”の歌が書かれた読み人知らずの短冊が下げられた。

さらに伐採を哀れと思う人はこの人ばかりではなかった。

 短冊を目にした九州電力社長の川合辰雄も同じ思いを部下に語った。部下はすぐに現場におもむき

「花あわれ」の光景を目にして、知人の西日本新聞社社会部の記者に現場を見るように電話を入れた。

記者は直ちに「花あわれ ついの開花をゆるし給え」という見出しで社会面のトップ記事として掲載した。

 誰もが道路拡幅の必要性を知るだけに工事反対とか、差し止めを求める抗議はなされていない。

ただ、せめてあとニ旬の二十日間ほど待って最終の開花ぐらいは見させてほしいとの謙虚な思いの陳上

である。しかし、この記事は大きな反響を呼んだ。当の花守りと名指された当時の福岡市長の進藤一馬

はこの記事を見て   “花おしむ 大和心はうるわしや とわに匂わん 花のこころは”

という返歌を詠いその短冊を花あわれの枝に下げさせた。「たとえ市長で

あっても決定され、すでに実施されている公共事業を一人の私情では

止めさせるわけにはいかない。それでもなお花を愛する大和心は麗しく、

あなたのその心はしっかりと受け止めましたよ」という返歌である。それ

から一馬は工事担当者に「桜の散り終わるまで何とか待てないものか」

と要請をしたという。

 年度末の事業である。工期の遅延は許されないし、役人としての資質が問われることであり、担当者は

苦悩よりほかなかった。だが花を愛する大和心を持つ一人として、花を守ってほしいとの社会の声を力に

彼は桜を活かす決断をしたのだ。予算の大幅な超過であったが計画を変更し、道路脇の池を拡幅分だけ

埋め立てて工事を進めた。それにはおまけが付いて歩道と小公園まで作られて桜は活かされたのだ。

 一人の読み人知らずの歌からはじまり、その同じ思いを抱く面識のない人たちの大和ごころのリレーに

よって桧原桜は守られた。この花守り物語は20年経った今もなお風流美談として語りつがれている。

 だが、それは携わった人たちだけの力ではなく花を愛し大和心をもつ社会が生みだした物語であり、

また、老いてもなお凛と咲く桜木自身が生んだ花物語なのである。


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