こころの紋様 -ミニ説教-

〜 求めなければ与えられず 〜

―自助努力へ鬼神も味方す―



 病気には治る病気と治らない病気がある。機質的欠陥など、もう回復不可能なものや、医術のまだ及ば

ない難病は、もうその病気とうまく付き合っていくしかない。ところが本来治る病気でも、治らない場合もある。

 以前足を捻挫して、ちゃんと正座ができない人がいた。それはもう二、三年前にころんだ時に起因する捻挫

なのだ。だが、捻挫は時間がかかっても治らないというものではない。転んだ当初は、痛さもあって病院通い

をし、順調な回復をみていた。ところがその人は以後仕事に追われ、以前にも増して多忙を極め、体を酷使し

無理を押して歩き回る営業を続けて、結局捻挫は治りきれぬまま未だにまともな正座ができない状態いる。

 本人は当然、足の不自由さを感じ、治りたいという気持ちがないはず

はない。だが、日常の生活に格別の支障を来たすこともなく動き回れる

こともあって、その不自由さに狎れて、忙しさもあってついつい病院通い

も休み、自宅でのリハビリ努力もなされていなかったのだ。

やはり、「治りたい、治そう」という本人の強い意志、さらにそのためには

どういう取り組みをすべきかという、自分自身の意思と努力なければ治療

効果は出ないのかもしれない。

自助努力というのは病気に対してばかりではない。何かをしたい、しなければならないという強い欲求があって

初めて、それに対してどうすればよいかの方法や手段が考えられるしそのための知恵もわくというものである。

先ず求める意欲がなくては事は始まらないのだ。

 骨折をして再起不能といわれたプロ野球選手などが、カムバックを

決意し医療の力と血のにじむような努力とリハビリに専念し驚異的

復活を果たした感動物語を聞くことが多い。「求める。願う」ということは

信仰の上でご利益的イメージを抱だかれるが、個々でいう「求める」とは、

向上欲の欲、意欲の欲であり、自然の中で生物が光を求めていく生命力

など人として必要な欲なのである。


〜巨人・小久保選手の復活〜

 「治りたい、治そう」という強い意志と「治るんだ」という自己確証、それを裏づける自助努力が一つになって、

その効能は発揮されるのだろう。「信の一念岩をも通す」といわれるが、その意思と信念は鬼神をも味方に

するほどのものだったに違いない。キリスト教でも「求めよ。さらば開かれん」というような言葉があったと思うが、

先ず求めんとする意思、即ち個々では治そうという願いを持つことであり、そのためにはどうすれば治るかという

自分自身のやるべきことがらが、示され智慧まで頂けるのだろう。


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