こころの紋様 -ミニ説教-

〜 修行に苦行なし 〜

―喜びを見つけ 喜びを学ぶ―



日本人の信仰観の中にはどこかに困ったときの神頼み的な「願い」や「すがり」といったご利益信仰的なもの

が多分にあるように思えます。しかし、真の信仰はご利益を求めることではなく、拝み、祈る中で神仏との

交流を通して安心を頂き、喜びを見つけ喜びを学ぶ手段が信仰であると私は思っています。

ではその喜びとは何かということになりますが、「これが喜びである」という特定される何かがあるわけでは

ありません。いかに財があろうと、いかに健康に恵まれていようと、また、あふれるご馳走にありつけようと、

それに対して喜びとする心、自らが喜びとして感じ取れる心がなければ、喜びというものは存在し得ないこと

です。つまり、この喜びを感じる心を学び育てるが信仰であり、修行だと思います。

喜びを持つ人は顔に出ています。修行には試練があり苦しいこともあること

ですが、それは喜びを得る手段であります。しかし、信仰には本来は苦行と

いうものはなく、ただ、己を虚しく、仏に対し素直に向かい、喜びと感謝の

心を向けていくだけの楽行しかないのです。ところが、人は己を虚しく出来ず、

我欲や煩悩欲に縛られて自らもだえ苦しむ、自縄自縛の一人相撲による

苦行状態に陥ってしまっているだけなのです。

  信仰している人の証として

     1. 顔が明るいこと
     2. 気持ちが楽しいこと
     3. 声が活き活きしていること
     4. 他人が生長をみとめてくれること

だといわれます。信仰による心の浄化によって、小さな喜びを喜びと感じることが出来、また小さな幸せを幸せ

だと思えることは大きな幸せなのだ思えることが、信仰の功徳なのだと思います。そんな信仰の喜びや幸せを

つかんだ時こそ、それは自分の大きな自信に通じることでしょう。喜びの心を多く持つことは周りの人に対して、

おのずからいい影響を与えるに違いありません。

「喜びや幸せは求めて得られるに非ず、自らの心を通じて仏より賜るものである」といわれています。喜び、幸せ

を願うのでなく、賜れるに値する境地を築き、その境地より出ずる自信こそ真の信仰の功徳ではないでしょうか。


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